理系・文系を重ねて見る光景は
ノーベル賞 文学賞はカズオ・イシグロ
カズオ・イシグロ氏がノーベル賞 文学賞を受賞です。
小説は読んでいないのだけど、原作の「わたしを離さないで」が映画化されたり、日本では連続ドラマ化もされ、主演の綾瀬はるかとカズオ・イシグロ氏の対談も見ていた。
対談大丈夫なのか、綾瀬はるかとも心配になるけど、僕は香川照之の「具志堅=綾瀬はるか」理論を信奉するものだからね。
映画は未見だけどドラマは出来がよく、このブログでも複数回書いた。
臓器移植、クローンなど暗く重いテーマながら、その運命づけられた世界を幼少期から丁寧に描いて、諦観ともいえる心が制限された青春のなかで形成される様子が怖ろしくも切なく、それでもほの見える外の世界や、留めることができない心の揺らぎ。
登場人物の言葉づかいも皆きれいで、大切で貴重な時間を生きざるを得ない特別な世界観が強調されるようだった。
言葉を覚えるのは教育の賜物だけど、言葉を大切にするのはそれだけじゃないのだ。
「わたしを離さないで」は主人公たちは人としてさえ認められない。

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現代は過度の情報があふれ、情報に流され、おぼれ、あるいは呆然と眺めるだけなのだけど、また過度に制限されても異質な世界観が浮き上がってくる。
これが極度に政治的で組織的・国家レベルになってくると北朝鮮みたいなことにもなるけど、個人に焦点を絞れば限られた世界、時間を諦観、反抗、様々な葛藤がありながらも精一杯に生き抜く魂の物語。
象徴的に表れるのは言葉で、僕などは思わず余計なことを言ったり不要な修飾語が多かったりするけど、「わたしを離さないで」のなかで生きるものの言葉は現代社会に溢れる言葉を削り取って選び抜かれた言葉のようにシンプルで美しい。
選び取られた言葉は語られない言葉も溢れさせる。
まあ、「猿の惑星」のように言葉まで奪われることになると、そんな魂の物語も失われるのだけど。
骨太なSFドラマであり、可憐な青春恋愛ドラマであり、なおかつ若者の心の機微を描く香り高い純文学のようなドラマだったのだ。
そして、十二分にエンタテインメントでもあったと思ったのだけど、視聴率は伸びなかった。
再放送はされるのだろうけれど、いわゆる再放送枠ではなく、堂々たる時間帯でしてもらいたいものです。
また「わたしを離さないで」の空虚感にはタバコが似合っていて、印象的だった。
まあ、小説は読んでいないんだけど。妄想だなあ。

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「文通」ふたたび!?
短文ならLINEで、長文ならメールで即座に要件や自分の気持ちを伝えられる現代。一方、文通が若い女性の間でブームだという。
「青少年ペンフレンドクラブ(略称:PFC)」を運営する、日本郵便によると、’16年始めに6973人だった会員数は、’17年8月1日時点では、9112人にまで増加しているそうだ。
「今でも平均毎月約200名の申し込みを受け付けています」(日本郵便)
学校で顧問教師の指導のもと、教育活動の一環、またクラブ・部活動、同好会などの形で入会する生徒も多いため、年齢構成比は10代までが28%と最も高く、男女比の方は83%で女性だ。ちなみに入会すると、会員情報誌「レターパーク」が毎月、手元に届く。「ペンパル紹介」ページに掲載された人と文通をしたい場合(国内文通のケース)は、「ペンパル紹介申込書」に加え、掲載者に送る「自己紹介の手紙」をPFC事務局に郵送、そこから相手に転送してもらう。Facebook上で瞬時に友達になれることを考えれば、どこまでもアナログな手段といえよう。
「SNS等リアルタイムに回答しなければならないコミュニケーションに疲れた方々が、肉筆の手紙に癒しを求めて、文通に回帰しているのかもしれません」(週刊SPA!編集部)

昔の雑誌には必ず文通欄があって、住所や名前はもちろん、年齢も載っていた。
今のような便利なツールはなかったけど、それらをとことん利用するというような商売っ気も悪意も何もなかった時代。
思えば家のドアもろくに鍵もかけず、窓も開け放して眠った時代。
手紙も書くまでにさまざまに悩み考え、書くときも字の下手さ加減に落ち込み、何度も書き直し、ポストに投函するときなってもなおためらい、出せば返事を待ちわび、郵便受けを覗き込む毎日。
封筒を切るにも手で破いたり、ハサミを使ったり、シャレてペーパーナイフを使ったり。
封を開ければ、その便箋に、その文字に、その言葉に心震わせる…。
まあ、そんな「ツバキ文具店」的な物語も人知れずあるというものです。

あなたは常々言っていました。字とは人生そのものであると。
私はまだこんな字しかかけません。でもこれは紛れもなく私の字です。(ツバキ文具店より)

フォントを選ぶだけの時代、人生はどうなってしまうのだろうなあ。

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作家でも昔は本に住所が載っていたのもあったな。僕のいちばん最新の記憶では「カンタン刑」(式貴士のデビュー作)に住所も電話番号も書いてあって、その後もしばらくは書いていた。
アップルから「iPhone X」も発表されてますます高機能になっていくけど、機能が付加された分、なにか人から奪われていくような気がしないでもない。

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こちらは投稿おしゃべりマガジン「ポンプ」。ペンフレンド募集でもなんでもないけど、多くの投稿者の住所がきちんと書かれていた。
場合によっては写真も載っていたからなあ。というわけで投稿ページの画像は掲載できないし、式貴士さんも今はそんなことはされていないようなので伏せました。
ネットの先駆けのような雑誌だったけど、記名でも自由で幸せな時代だったな。
効率を求めて、あらゆるものを活用する時代、その便利の代償は人にとっていちばん大切なものだったのかもしれない。
無駄や迂闊であっても緩くて豊かで自由な自分や世界のほうが心地いいかも。

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時の花、真の花
もう終わってしまったけれど、たびたびの「やすらぎの郷」からです。

姫 九条摂子(八千草薫)はゴンドラの歌が好きだったそうです。
(いのち短し 恋せよ乙女 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを)
姫が秀さん(藤竜也)に言ったそうです。
「秀さん、私、――何だかずうっと死なない気がするのって」
秀次「世阿弥の花伝書に従えば、若い時代の姫の美しさは彼の云ういわゆる“時の花”です。それに対して今の美しさは、幽玄を秘めた“真の花”です。今の方が自分は美しいと思います。」

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まあ、そうかもしれないけど、人は所詮、時の中に生きるものだからなあ。
永遠に生きる者たちさえ、たいてい物語のなかでは若さゆえの美しさに固執する。
やはり“時の花”だからこそ、二度とない一瞬のきらめきだからこその美しさなのだろう。
また、坂口安吾は「堕落論」のなかで、こうも語っている。
数年前に私と極めて親しかった姪(めい)の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まっさかさま)に地獄へ堕(お)ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕(お)ちて暗黒の曠野(こうや)をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘(かかわ)らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落(りんらく)自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。

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人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
…となるのだが。

画像上は三浦友和主演「星と嵐」。友和を挟んで微笑む二人はサラダガールコンテストで1位になった古手川裕子と準ミスだった名取裕子ですね。
古手川裕子16歳、名取裕子18歳の映画デビュー水着写真だけど、まさに“時の花”。
はじけるような笑顔ですね。女性がヌード写真を撮っておきたいって気持ちもわかるような気がする。
秀さんだって、“時の花”をさんざん愛でてのうえでの“真の花”ですからね。
まあ、それでもいつまでも人は“時の花”に惑うというのが「やすらぎの郷」。それが人は生きるということ…なのか。
画像下は映画「雪の断章」。人は惑う。

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慎ましく健気な薄幸系女優
ここ最近の話題になった“恋愛ドラマ”といえば、『あなたのことはそれほど』(TBS系)に代表される“ゲス不倫ドラマ”や、『逃げるは恥だが役に立つ』(同)などの“契約恋愛・結婚”といった、現代の恋愛の形を体現するラブコメものが挙げられる。だが、かつては不治の病にかかったヒロイン×それを支える恋人…といった、いわば“薄幸ヒロイン系ドラマ”が恋愛ドラマの“王道”だった時代もあったのだ。しかし今では、薄幸系ドラマはほとんど放送されなくなったし、それに伴い薄幸ヒロインを演じられる“薄幸系女優”も少なくなったようだ。果たしてこのまま薄幸系ドラマは絶滅してしまうのだろうか?(オリコンニュース)

とあって、薄幸系女優は今や木村多江の一人勝ちみたいに書かれていたけど、そんなこともないでしょう。
僕の好きな薄幸系女優はもう少し優しく儚げな奥貫薫さんですかね。
富田靖子さんなどもまさに「さびしんぼう」の薄幸ヒロインから、そのまま薄幸系女優?になってしまったけど、まあ、薄幸、幸薄くても健気に慎ましく生きていく、まさに「さびしんぼう」のイメージだからね。人がどう思おうと薄幸とはちがうのかもしれない。

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一方、最近の木村多江さんは薄幸を逆手にとってたくましく生きていく作品も増えてきた。「就活家族」もけっこう怖かったし、「市長死す」などはそれはもう。

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薄幸ヒロインならいまは蓮仏美沙子かな。
薄幸系女優に限らず、もっと昔は幽霊やお化け系の女優?もいましたね。
木村多江さんも当初は死体女優とも言われていた。
やっぱり、幽霊は日本的な美しい人がたぶん似合うのだろうなあ。「四谷怪談」の小雪や高岡早紀などがその典型で、仲間由紀恵や北川景子も演じればさぞや美しく怖いことでしょう。
さらに若手でいえば波留でしょうか。彼女も「BORDER」「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」とか「おそろし〜三島屋変調百物語」など生と死のはざまにあるような役柄も多かったからなあ。
この系譜ではないけど、もっと怖ろしいのは未見ながら噂にも聞く新藤兼人監督作品「鬼婆」で、主演は姑の老婆に乙羽信子、若い嫁に吉村実子。いや、ストーリーを読んで想像するだけでも震え上がってしまった。人、女が抱え込む根源の闇というか。
あれ、薄幸系女優の話が幽霊、恐怖映画女優になってしまった。転化しやすいのか。
貧乏系だけど薄幸系ならぬ多幸系のお母さん女優としては石野真子がいます。

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進化のための存在と時間
最近のスマホの急速な進化、あるいは本でもレバレッジリーディングなどという効率のいい読み方があるらしいけど、科学、文化、あるいは進化でも本来は着実なステップを踏むものではないかなあ。
近代までは例えば電話もベルの発明から電話機・電話線・電柱などが必要とされ、少しずつ改善されながら、そのインフラには膨大な費用と時間がかかり、そのうえにゆっくりと熟成するように生活、文化が育まれ、人間も成長してきた。
携帯、スマホに至るまでに日本では明治から昭和にかけて、人々との長い電話の歴史、それにまつわる物語があるのだ。
今はそういうインフラの整わない場所でもいきなり通信は可能となり、いわゆる先進国と変わらぬ状況があっという間に作られ、長く育まれた生活や文化も経済的裏づけがあれば簡単に彼の地にも取り込むことが出来るのだ。
これは文明の公平化というか、経済、あるいは教育などの格差をなくすための強力な武器ともいえるけど、長く積み上げ文明・文化を経て持ち得たものと、経ずに持ち得たものとの差は果たしてないのだろうか。
ピケティは金持ちは資産の運用で稼ぐことができ、その収益のほうが給与所得者の収益の伸びを上回っているから、給与所得者はどんなに頑張っても追い抜けないとしたけれど、ほんとうの資産というのはまさに「長く積み上げてきた時間も含めての文明・文化」ではないのか。

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効率の名のもとに実利的な部分のみを残し、いともあっさり投げ捨ててしまうのはほんとうの資産を失うことではないか。
あっさり捨ててしまうものにこそ、測れぬ価値があるのかもしれないぞ。
経済の指標は数字として残るし、お金など資産も形として残るけど、長い時間をかけた文明や生活・文化ももちろんほんとうに人間が叡智と感性をかけて作り上げた資産なのであり、伝承されなければ二度と取り戻すことはできない。
幸いにして古来より多くを残す日本の多くの遺産だけど、その名もなき姿なき遺産もアベノミクス的思考のみでは多くを失うのではないか。効率よく国際競争に勝ち抜こうとすれば日本語すら失いかねないからなあ。
シンプル化、フラット化は効率や公平化に繋がるものではあるけれど、せっかく急峻な山、深い渓谷、唸る大地と寄り添い、それゆえ豊かで美しい自然と調和してきた独自な文化をグローバルスタンダードの名のもとに捨て去るのではなく、常に新たなる可能性として守り提示し続けるものではないだろうか。
現実のなかでそのバランス、調和を図るのが大人の、政治の知恵であり、多様な自然・文化に育まれた日本の知恵。

画像は読んだこともない「存在と時間」。まあ、ハイデッガーなんて筒井康隆と笠井潔の小説で知るのみなので、こんな話になってしまうのだけど。