理系・文系を重ねて見る光景は
面倒な「自己表出」は守られるか?
連続して嗜好品や自室の公開など、いかに過去の昭和な自己表出といえどもなかなか恥ずかしいものがあるけど、これも今流行りの自己承認欲求のひとつなのだろうか…と考えていると、いつだったか雑誌の低迷についての鹿島茂(仏文学者)の「自己表出・指示表出」論を思い出した。
鹿島茂によればオピニオン雑誌・ノンフィクション衰退の原因ははっきりしていて、インターネットの普及によるものとし、それはいかなるプロセスによるのかを吉本隆明を引用して説明していたのだ。
それによれば、まず言語表現とは「自己表出」と「指示表出」に分けられ、自己表出とは人が自分の感情や心の動き、あるいは凝縮した思想や志向を表現しようとするもので、その究極が広い意味での誌的・文学的表現である。
対するに指示表出とは情報およびそれに伴うコメント、意見の類を相手に伝えるものである。
必ずしも明確に分けられるものではなく、方向性により分けられるほどの意味ということらしい。
とりわけ、危機に追い込まれているのは「指示表出」系のメディアで、言語の指示表出的機能は、今や完全にインターネットに代行され、いずれその津波はその他の活字メディア全般に及ぶに違いないという。
さらに「自己表出」的機能についてはかろうじて残るというのだが、それは他者が表出した「自己」を拾い上げ、それを我がことのように感じ、自己のうちに吸収するという、忍耐力と集中力を必要とする心的作業にはインターネットは向いていないと思うからだ。
詩集の大きな余白は「自己表出」の象徴なのである…と。

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まあ、ネットはネットで忍耐力も集中力も効率よくして自己表出もやってのけそうで、やっぱり雑誌は厳しいかもしれない。
いずれにしても、自己表出系メディアが残るにしても、それは現代詩がおかれている状況に等しいと言います。
つまり、それでは食べていけないということである。買ってまで読んでくれないのだ。
なるほどなあ。純文学誌なども何千部ということらしいからなあ。
高村光太郎も萩原朔太郎、中原中也、立原道造、北原白秋、金子みすゞなど名を残す詩人は多いけど、おおよそ、お金には縁がなさそうだし。今なら、なおのこと厳しそうな気がする。
まあ、それはともかく。
自己表出、この機会にあれもやり切っておこうということで、次回のブログは一部ご希望もあった小説「人外は微睡に潜む(後編)」となる予定です。
一部にやや過激な表現もありますので、前篇を読んで不快と思われた方はすっとばしてください。
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