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理系・文系を重ねて見る光景は
「中学聖日記」と「今日から俺は」の間にあるもの
「中学聖日記」の少年の暴走が止まらない。
少年と若い女性教師の純愛を描くものだけど、単純に少年期にありがちな夢見がちな恋愛ではすまなくなって、美しい映像に暗喩的に肉を伴ったものとしても描くからだ。まさに性と聖。
二人の周りも妖しい。ヒロイン有村架純の恋人の上司である吉田羊は妖しげな態度と言葉を投げかけ、ヒロインの一見頼もしい先輩のような友近も先週の助言などは繊細な感性の人にとっては悪魔のささやきにもなりうる。
少年期にありがちな、新任教師にありがちな勘違いというか、そのままほっとけば、まあ、多くはロマンチックな思い出くらいの記憶の片隅におかれていくものなのに妙に生々しく言葉にして、ヒロインに意識化させてしまった。
人は運命の女、男、あるいは出会いに左右されるのではなく、おりおりの言葉にこそ左右されるのかもしれない。

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僕は学生のころ、けっこうジュビナイルの富島健夫の小説に嵌ったことがあり、性の描き方がリアルだったのだ。
異性と無縁性が生む少年の無垢なる妄想では女性は美しく純粋な花のようなのに、少年自身はなにやらよくわからぬ性的な欲望にも苛まれ、なんて僕は醜く汚らわしいんだ自嘲するのだけど、富島健夫はその葛藤の目の前にある無垢で花のような少女にも同様に肉の葛藤があると仄めかすように書いたのだ。
もう衝撃である。うそでしょう。そんなことがあるはずがない、でも…。
まあ、所詮、それでも行動の伴わぬ内向少年では囁きも聞こえず運命はドラマのようには切り開くことはできないのだけどね。
しかし、こういう魂の持ち主は少年に限らず大人にもいるのだ。
「愛の顛末」(梯久美子)よるところの原民喜(作家・詩人)である。
晩年(といっても45歳で自殺した)、原にとって奇跡のような少女に出会い、お茶をセッティングされても話しかけることもできず、少女のいるささやかな風景だけで彼の心はゆすぶられ、満たされたのだろうという。

人間の観念。それが僕を振落し僕を拒み僕を押つぶし僕をさまよわし僕に喰くらいつく。僕が昔僕であったとき、僕がこれから僕であろうとするとき、僕は僕にピシピシと叩かれる。僕のなかにある僕の装置。人間のなかにある不可知の装置。人間の核心。人間の観念。観念の人間。洪水のように汎濫する言葉と人間。群衆のように雑沓する言葉と人間。言葉。言葉。言葉。(原民喜 鎮魂歌より)

さて、異性と無縁性が生む少年の無垢なる妄想は必ずしも文系少年特有のものでもなく、一部のヤンキーにもあって、「今日から俺は」の三橋、伊藤、そして今井ですね。
今井にすれば喫茶店で女子とレスカなんて、思わず腕相撲と口走ってしまうおバカもさもありなんという忘我のシチュエーションでしょう。
しかも腕相撲は堂々と女子の手と重ねることであり、無垢なる心の叫びがもたらす奇跡なのだ。
今井の溢れる妄想が三橋にも伝播するというものです。
人間のなかにある不可知の装置。人間の核心。人間の妄想。妄想の人間。
洪水のように汎濫する妄想と暴力。群衆のように雑沓する妄想と人間。妄想。妄想。妄想。

画像は妄想の「さびしんぼう」であろう富田靖子。
わけのわからん話になってしまったぞ、椋木先生(ムロツヨシ)。
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テーマ:詩・想 - ジャンル:小説・文学

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