理系・文系を重ねて見る光景は
時の花、真の花
もう終わってしまったけれど、たびたびの「やすらぎの郷」からです。

姫 九条摂子(八千草薫)はゴンドラの歌が好きだったそうです。
(いのち短し 恋せよ乙女 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを)
姫が秀さん(藤竜也)に言ったそうです。
「秀さん、私、――何だかずうっと死なない気がするのって」
秀次「世阿弥の花伝書に従えば、若い時代の姫の美しさは彼の云ういわゆる“時の花”です。それに対して今の美しさは、幽玄を秘めた“真の花”です。今の方が自分は美しいと思います。」

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まあ、そうかもしれないけど、人は所詮、時の中に生きるものだからなあ。
永遠に生きる者たちさえ、たいてい物語のなかでは若さゆえの美しさに固執する。
やはり“時の花”だからこそ、二度とない一瞬のきらめきだからこその美しさなのだろう。
また、坂口安吾は「堕落論」のなかで、こうも語っている。
数年前に私と極めて親しかった姪(めい)の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まっさかさま)に地獄へ堕(お)ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕(お)ちて暗黒の曠野(こうや)をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘(かかわ)らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落(りんらく)自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。

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人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
…となるのだが。

画像上は三浦友和主演「星と嵐」。友和を挟んで微笑む二人はサラダガールコンテストで1位になった古手川裕子と準ミスだった名取裕子ですね。
古手川裕子16歳、名取裕子18歳の映画デビュー水着写真だけど、まさに“時の花”。
はじけるような笑顔ですね。女性がヌード写真を撮っておきたいって気持ちもわかるような気がする。
秀さんだって、“時の花”をさんざん愛でてのうえでの“真の花”ですからね。
まあ、それでもいつまでも人は“時の花”に惑うというのが「やすらぎの郷」。それが人は生きるということ…なのか。
画像下は映画「雪の断章」。人は惑う。
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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

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