理系・文系を重ねて見る光景は
もう一つの妄想進化論
前にも「妄想進化論」というのを書いたことがあるけど、もう一つの「妄想進化論」です。
いつも通りの僕の妄想ですよ。論理の混乱・破たんがあっても妄想ですからね。

進化にもさまざまにあって、基本は生存競争に勝ち抜くために各々進化するのだけど、種が違えばもちろん、同じ種であってもその中で勝ち抜くためにそれぞれの競争をするのだけど、人間の場合、ある程度条件を揃えようとするのは社会性の生物であり、また、その平等の価値観を提示することによって、そのほうがむしろ競争、すなわち、より早くより良い進化、発展をもたらすからという経験則などによるものなのだろう。
経済活動も同様で、国も成り立ちも文化も成熟度も全く違うのに、まあ、ある程度には勘案しながらもまるで公平を声高に叫びながら、すべてのものをフラット化していきますね。
経済も競争だからそういう側面も多いけど、経済というのは文化など、より強く人間の社会生活全体を抱合するものでもあるから、あまり、その手法に偏るのはどうなのでしょう。
たとえば、独自に発展した日本アニメは「君の名は」の大ヒットのように様々な変化もありながら隆盛だけど、現場の疲弊は変わらない。フラット化して制作現場が海外にも拡大して競争が激しくなったからだ。
変わったというなら制作現場の疲弊の受け止め方で、フラット化したことによってなぜ僕たちがこのような待遇に甘んじなければならないのだという、ごく当たり前の生存競争の住人になってしまったことだ。
傍から見ればずいぶんな、また自らもずいぶんなとも思いながら、身を投じて作り上げた世界(作品)が認められ満たされていたものが、さらに世界中から評価されたのはよかったけど、その時点から世界市場となって競争のなかに入り、安価な労働力や技術によって表層だけが奪われていく。
競争にさらされていつのまにか、彼の地の住人の深層も表層の身にフラット化されてしまったような。
箱庭のような世界では競争といっても、それぞれの美学を争うようなものだったのに、世界市場なったとたん、冷徹な市場原理が飲み込み、あっというまに渉猟していくのだ。

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動物でも保護色、擬態など、なんでこんな方向に特化していくのかなってという感じの進化もあるのだが、これが自然の恐るべき多様性というべきなのだろう。弱肉強食は必然かもしれないけど、自然は腕力だけではない。異形、異相なものも受容する。
人は公平化の価値基準だけに安心して、経済の競争に身を投じていいのだろうか。
社会での強者として生き抜けても、それは人間の種としての力を削いで、地球の生物の種の王座は奪われるかもしれない。
まあ、それも生存競争ではあるけれど。
いや、アニメや漫画の現場のことなんだけどね。
クールジャパンで国が支援するのはいいことであるけれど、何か肝心なものが失われていく気がするんだなあ。
北斎も歌麿も若冲も好きなもの描いていただけで、貧乏も金持ちも関係なかった。
それによって独自になって永劫に生き残るのだ。
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