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理系・文系を重ねて見る光景は
昭和の読書、昭和の街の本屋さん
読書の秋とも言いますが、春もねえ。
新学期、新しい教科書、図書館の匂い。窓際で読んでいたりすれば風が桜の花びらを運んでくれたり…。
なんていうのは今の映画やアニメでもありそうだけど、今やデジタルでも読めてしまうからなあ。
知らぬ間に花びらがページに挟み込まれ、またいつか読み返したりすれば、ああ、春に読んだのだなとあの頃を懐かしく思いだしたり、誰かの手に渡っていたりすれば、挟み込まれた押し花が謎を解くカギとなるようなミステリーもあるかもしれない。
まあ、昭和の僕にもどちらもないけど。
今は書店事情も昭和のころとはずいぶん変わってしまい(町の小さな本屋さんが多く、ネット書店はもちろん、大規模書店もあまりなかった)、それは読書そのもの意味も変えてしまったのかもしれない。
僕のよく通った本屋は小さかったけど、町の読書好きの人々の嗜好を知って品揃えするような感じもあった。
少女漫画誌も姉や妹がいるようなふりをして買っていたけど、もちろんバレていたのだろうなあ。
あるいは、マニアックなエロ小説が1冊だけ入荷していると、「ははあ、本屋の親父、僕が買うと見込んで仕入れたに違いないぞ」と思ったこともあり(被害妄想だね)、でもたいてい、しばらくして行くと売り切れていたりした。
もうひとり以上はいたのだね、この町には。誰だ…なんてことは今はない。
古本屋に行けば、たまに書き込みのあるものがあって、「ああ、誰だろう」ってロマンチックな思いに浸ることもあった。
学校の図書室では貸し出しカードに気になる子の名前を見つけて、どきどきしたこともあった。

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画像は少年時代に古本で買ったコミックス。末尾にはこんな購入日の書き込みが。お父さんというのがいいなあ。
知的で優しいお姉さんに違いないと夢想した。

大型書店ではなんでもあり様々なものに巡り合えるから、僕のころとはちがう楽しみもあるはずだけど、どうなのでしょうね。
あの頃は本だけでなく、本を取り巻く場そのものにも意味があったのだ。
今は巨大書店となり、本を置く場は大きくなったけど、ただ、あまたの情報に溢れ、情報のみに追われ、本来の、情報の意味やその流れの中で様々に生まれるようなものに気づく間もなく、本はまさにただアマゾンを流れるような本になってしまっているではないだろうか。
合理性のみで手に入れ、合理性のみで手放すように。
僕は町の本屋の親父の独善的?な合理性を愛す。
坂口安吾は「小説はたかが商品ではないか、そして商品に徹した魂のみが、また小説は商品ではないと言い切ることも出来るのである」とも言っていますが。
子供は親に薦められて良書を選ぶだけでなく、いわゆる悪書含めて学ぶし、自分で選んだものは大切にする。
かつて本を巡る様々な関わり合いが、1冊の本にあったはずだけどずいぶん少なくなってしまったような気がする。
そんな危惧を抱く読書好きの方に。

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昭和の読書/荒川洋治
出版が元気だった昭和に刊行された本の現物を手にしながら、読むということを通して、見えてきたこと。
書き下ろしを含むエッセイ集。
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テーマ:本、雑誌 - ジャンル:本・雑誌

コメント
この記事へのコメント
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2018/04/10(火) 21:12:50 | | #[ 編集]
この本の内容に興味あります。本屋さんで見てみます!(といっても、その本屋さんは大型書店だったりするんですが。でもアマゾンで買うよりはやはり現物を手に取って中身を見てからと思っているので、そこだけは今でも頑に笑)

>あの頃は本だけでなく、本を取り巻く場そのものにも意味があったのだ。

納得です。
2018/04/11(水) 13:38:51 | URL | マナサビイ #-[ 編集]
昭和の読書、昭和の街の本屋さん
こんにちは。
あまり昭和を懐かしむのもどうかとは思いますが、町の本屋さんという場がなくなっていくのは文化が脆弱になるような気がします。
2018/04/11(水) 17:36:10 | URL | クプクプ #-[ 編集]
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