理系・文系を重ねて見る光景は
場の理論における喫茶店は考えるときの『ため』の場
東海地方は喫茶店の多い土地柄で、さらに有名なのはモーニングサービスの豪華さですが、それでも個人経営の店は圧倒的に少なくなり、その存在の意味合いもずいぶん違ってきた。
僕の学生の頃はどちらかと言えば若い人たちのたまり場、学生たちの議論の場でもあったけど、今は老人やおばさんの憩いの場で、まあ、時は流れ、若い人は減り、老齢人口が増えているからこれも自然の理。
当時、たまり場としていた学生たちが老いて回帰しているとも言えますね。
あの頃、僕の周りでは「場の理論」というのが流行っていて、同じ議論をしても教室と喫茶店ではまた別の結論が見出されたりするのだったけど(?)、今の学生はネット、SNSという場になってしまったのだろうか。

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以前に日経新聞で 鷲田清一氏(哲学者)が「議論できる喫茶店を作れ」というのがあった。
最近の流行のカフェは単なる待ち合わせ、時間つぶしの場所で、人が居合わせただけで文化が生まれるわけでなく、一方、かつて路地裏にあった名曲喫茶、ジャズ喫茶には文化の香りがあり、どこか秘密ぽくって暗く、大人への入り口のようでもあった。
さらに若者たちが集まれば議論を通して『論』を立ち上げたり、横でギターを弾く奴がいたり、女目当ての奴も潜んでいたりもするのだが、そういうものも含めて大人への基礎体力が鍛えられるのだろう。
でないとデモクラシーもたしかに脆弱なものなってしまうのかもしれない。
テレビやネットから流れる情報を受身でシャワーのように浴び、条件反射のように反応するだけでは物事を考えるときの『ため』がなくなり、想像力がしぼんでいると言われればそのような気もする。
画像はかつての大阪桃谷のゼネプロにあった店内カフェ「SID」のマッチ。あのころは他に岡山に「ソラリス」という喫茶店もあったはずで、賑やかに交わされたのはSF談義。今やSF映画の巨匠の庵野監督や樋口監督もいたのだろうなあ。
映画では神戸に「レティシア」(映画「冒険者たち」)というバーがあるとも聞いたし、書店もあるらしいけど、こちらは映画談議が楽しく交わされ、真田広之や渡瀬恒彦がいたかもしれない。
喫茶店は考える『ため』の場だったのだ。
政治や思想だけでなく、芸術、マンガ・アニメや映画など、様々な人が集い、激しく楽しく議論を重ねた「場」だった。
今はそんな仲間もいなくなり、すっかり個になってしまったけど、独善的にはなっていないだろうか。
ネットもSNSも議論の場を広げてはくれるけど、圧倒的な情報のシャワーに流され、考える『ため』の時と場は失っているのだろうなあって。
まあ、僕も似たようなテーマや再編集などマンネリ気味で、もう少し考える『ため』の時と場があったほうがいいのかもしれない。
スマホやガラケーは持っていないんだけどね。
ということで、これまで週3回の月・水・金のブログ更新は次回より週2回の月・金とします。
まだ、多いのかなあ。案外、他の曜日にも気ままに書き込んだりするような気もしますが。
そのぶん、僕ももう少し町に出てみよう。
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