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理系・文系を重ねて見る光景は
やれることは自分で 「おひさま」の陽子ちゃんの寝押し
僕の子供のころは再放送というと夏休みを待たなければならなかったけど(子ども向けの再放送「海のトリトン」とかね)、今はずいぶん自由に見ることができるようになった。
先日はたまたまNHKの朝ドラ「おひさま」を見ていたのだが、久しぶりに「寝押し」を見た。
寝相の必ずしもよくないヒロインの陽子ちゃんは「寝押し」にも失敗するのだけど、あの頃の女子学生はこんなことにも一喜一憂するのだった。
まだ僕たちの学生の頃でも「寝押し」はあった。
こんな近しい事柄でもこんな近しい時代でもあっという間に忘れ去られていきますね。
近代の歴史はずいぶん、ささやかなものから様々なものを他者に、機械に、システムに委ねてきた。
そういうものからは自由に、そして可能性を大きく飛翔させたけど、そのすべてを失った時、まるっきり途方に暮れるようになってしまった。
アイロンがなくても「寝押し」で出来るように。

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上記の絵は映画「火垂るの墓」の清太と節子のお風呂のシーンだけど、タオルか手ぬぐいで空気を取り込み、お風呂の底に沈めて、ぐっと握りつぶしてあぶくを溢れさせるものですね。
思い出せばずいぶんやったものだが、こんなシーンを見なければ思い出すこともなく、ただ忘れ去られていく。
でもこのように日常に好奇心の種は溢れていたような気がする。
今も好奇心の種は日常にあふれているのだろうけれど、ずいぶん機械に委ねられてしまった気がする。
こんなありふれた日常の中にこそ好奇心を抑えられない様々の発見があり、科学への興味・進歩もこんなところから始まる。

また貧しくぎりぎりでの生存は様々な軋轢や冷酷な判断も生じさせるけど、心の痛みとなり道徳をもたらしたけど、今はなんの葛藤もなく、たとえばゲームのような感覚で核ボタンさえ、押せてしまう人も生むのかもしれない。
再放送も気軽に提供してくれるネット社会もセキュリティーなども、いまやその危険を全面的にシステムに委ねるものですね。
東日本大震災や昨今の災害は生きること、ともに生きることの危険・困難、非情、軋轢などをもたらすけど、自らが受け止めていくのか、もっと他者、システムに委ねていく社会を目指すのか、ひとつの大きな分かれ目なのかもしれない。
「おひさま」の陽子ちゃんの寝押しで慌てふためく、ふつうの感性が可愛くいとおしい。
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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

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