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理系・文系を重ねて見る光景は
青春歌謡映画の堂々たる貧乏に見える希望
前回は怖い話になってしまったので、今回は青春歌謡映画で明るく締めくくろう。
(以前のブログより再編集したものです)

作家の久間十義が青春歌謡映画に嵌っている。
久間十義って「世紀末鯨鯢記」などいかにも気難しそうな小説というイメージがあるので、すこし不思議なのだが、こういう人に言って貰えるとちょっとありがたい。
なかなか、声を上げて言うことは出来ませんからね、青春歌謡映画好きだとは。

~何しろ今まで神妙に演技していた人間が突然歌いだすのだ。その種のお約束を知らない者は面食らう。けれどというか、だからこそ、高度成長期の雰囲気満載。いい調子に無根拠な自信に溢れていて気持ちが和む。
つらつら思うに青春歌謡映画では何が素晴らしいって、この貧乏と希望が素晴らしいのだ。当時、人は何もないところで味噌や醤油の貸し借りをした。ないものを分け合い、思いや希望を分かち合った。若者たちは親の苦労を知り、弟妹のために健気に生き抜こうとした。そこには何もなかったが、希望があった。貧乏は希望の代名詞だった。
貧乏は今も変わらず転がっているのに個人主義やらプライバシーやらで見えにくくなり、隠され、本当に見えなくなってしまった(久間十義)。

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やはり多少みっともなくても「貧乏」も見えていたほうがいいのではないかなあ。
今は青洟を垂らした子供も、継ぎあてだらけの子供も見ないけど、見えない貧乏は捻じ曲げられ心の奥にしまい込まれ、知らぬ間に心まで虚ろに蝕んでいるのかもしれない。そして、周りは不可視化をいいことに見ないようにもしてるのかもしれないのだ。
ちゃんと光を当てれば希望に転化するのに、逆に蓋をすることで腐らせ怪物化するかもしれないのに。
ハロウィンの渋谷の一部の騒動を見ていると、心にしまい込まれ、蓋をされた日常の鬱屈が怪物の種子を生み、おりおりに孵化し非日常の祝祭を借りてやすやすと姿を現し社会を蝕み始めたような気がしないでもない。
天地真理の「虹をわたって」、浅田美代子の「しあわせの一番星」などは最後の青春昭和歌謡映画だったろうか。
あの頃はあちこちに貧乏は転がっていても、ほら、みんな笑っている。
時代劇でも「歌くらべ満月城」なんてのもあって、いやどうせなら「神州纐纈城」の光と闇の対決軸で「歌合戦神州纐纈城」でもよかったかもしれないなあ。
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テーマ:邦画 - ジャンル:映画

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