理系・文系を重ねて見る光景は
実家の解体
今週は私的備忘録です。
僕はちょっと多趣味なところがあって、なおかつ収集癖もあった。アニメやマンガ、本や雑誌、テレビやアイドルも好きだった。
なかでも映画関連はポスターやプレスシート、チラシ、ロビーカートなど、ずいぶん集めて今でもけっこう残っているのは空き家になっても長く解体されず倉庫代わりとなっていた実家のおかげ。
僕の部屋はもともと釜戸などがあった炊事場の二階の梯子が架けられた屋根裏部屋で、子供が成長するにあたって、ようやく階段のついた変形な二部屋の子ども部屋に改装された。兄が結婚したおりから、僕が占有した。
その後、空き家となってからも僕の部屋はそのまま残され倉庫代わりとなった。空き家になってからもむしろ僕の部屋の荷物は増えて、けっこう部屋いっぱいに積まれてもいた。

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先日、実家に行って母と実家の昔話をしているとき、解体前の写真があったのでちょっと撮ってきたのだ。
残念ながら僕の部屋のところはなかったので、左の1枚はまだ住んでいた時の僕の部屋。
基礎はこれだものなあ。盤石な地盤ならともかく、木曽川の堤防沿いで子供の頃はよく浸水して、仏間の大きな仏壇の下が抜けたことがあった。夏には畳上げなどもした。

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左は正面から裏口まで撮ったもので、実家は田舎の商家だった。
右は2階北側真ん中の部屋。けっこう一、二階とも部屋数は多かった。

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こちらの左はやはり二階の納戸だったところ。長持などが置いてあった。
二階の南側の天井は低く、太い梁が見えるままに天井が張られていない部屋も一部屋あった。

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屋根は空き家になってからも一度葺き替えている。
整理はまだなかなかつかない。
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テーマ:建物探訪 - ジャンル:学問・文化・芸術

NHKスペシャル「人体」と「ミクロの決死圏」
NHKスペシャル「人体」シリーズが面白いですね。
司会はタモリとノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥教授で、石原さとみや博多大吉も参加する知的エンタテイメント。
臓器同士のネットワークや腎臓の驚きの機能だとか、やはりここ最近の医学は驚くべき発展を遂げているのだなあ。
僕はこういうのを見ると映画「ミクロの決死圏」を思い出してしまうのだけど、人が体内に潜りこむのはともかく、カプセル内視鏡などすでに似たようなことは実現されている。
「ミクロの決死圏」は縮小化した医療チームが体内に入り、様々な危機に陥りながらも何とか治療をなし終え、最後は涙とともに体外に排出されるスペクタクル映画?。

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まあ、昔の映画だから科学的に見えてもずいぶんアナログで、たとえば体内では医療チームはウエットスーツを着るのだが、頭の部分が露出していたりする。
まあ、アニメ「遊星仮面」(宇宙空間でも仮面以外の顔・頭部は露出し、長い髪はたなびいている)みたいなもので、あまり科学的デティールにこだわっていると面白くなくなってしまうし、それでも十分に科学的検証に基づいた真面目な映画だった。
ちなみに遊星仮面」も意外にシリアスです。
まあ、ラクエル・ウエルチについた異物を取り除くシーンが唯一のサービスシーンですね。
もっとも遠藤周作はこの映画にまったくちがうインスピレーションを得て、「初春夢の宝船」というパロディ小説を書いた。
こちらは涙ではなく、うんこと一緒に排出される物語。さすがは老境まで肛門期?だった遠藤周作。
あのころはフロイトの口唇期とか肛門期ってのが流行ったけど、今でも通用するのだろうか。
まあ、たしかに子供は、特に男の子は「クレヨンしんちゃん」じゃないけど、うんこネタが好きですね。
子どもでなくても遠藤周作ばかりでなく、筒井康隆は「最高級有機質肥料」、山田風太郎「ありんす国伝奇」などのうんこ名作があって忘れらません。稲垣足穂などもそうじゃないのかなあ。
「人体」は全8回シリーズらしいから、ぜひ見ましょう。
遠藤周作のように思いがけないインスピレーションを得るかもしれませんよ。
ちなみに僕は胃を刺激して吐き気をもよおさせ、嘔吐させるってのがいいと思ったけど(映画的にも激流に飲み込まれるような大スペクタクルになる)、パロディまでいかなかった。
勝敗だけではない!?大相撲の本懐
いささか旧聞ですが。
今年の大相撲秋場所、横綱日馬富士が前半の3連敗など休場の声も聞こえるなか、復調し、11勝4敗で逆転優勝を果たした。
秋場所は三横綱、二大関ほか空前の休場力士数の多さとなり、これについては稽古不足などのほかに力士の大型化が挙げられている。相撲は世界で唯一かどうかは知らないけど、まあ、体重別などの区分けのないものだからこれは大きな理由になり得る。
大型化は小兵力士の危険を増し、それでも勝とうとすれば捨て身の技も増えてくるから、相手の大型力士の危険も増える。
大型ゆえ、捨て身の技を打たれ負傷すれば自らの体重のゆえ、より致命傷にもなりかねない。
大相撲は八百長問題もあったからガチ相撲となっているのだろうけれど、昔は八百長ではなくても捨て身の技などは双方に危険をもたらすものだから力を残しながらも諦めたりするようなこともあり、まあ、世界に類例のない無差別級の戦いだから、ルールの外の配慮も必要だったのだ。
今はすべてに透明化、ルールの明確が求められ、こういう部分を楽しむような文化は認めづらくなってしまった。危険というなら階級別になんてことにもなりかねない。
以前にも日経新聞で米国の権威ある経済学会誌に「勝利が全てではない大相撲の腐敗」という論文を紹介して(筆者は相撲の素人とはいえノーベル経済学賞への登竜門ジョン・ベーツ・クラーク賞を受けたシカゴ大の俊英、レヴィット教授)、それによれば7勝7敗と8勝6敗の力士の対戦を過去11年間、32000番ものの取り組みデータを分析して、普段はほぼ5分の星なのに千秋楽に顔を合わせると7勝7敗の力士の勝率が約8割になったのだという。
単に勝敗を競うスポーツというなら「勝利が全てではない大相撲の腐敗」となるけど、神事でもありエンタテインメントでもあるからなあ。だからこその無差別ということもあるのだろう。
実際、相撲では死に体という言葉があり土俵上に体が触れたり土俵を割るなどしなくても、死に体とさればその時点で負けになる。逆に対戦力士は、死に体となった力士より手などを多少早くついても、「かばい手」等と呼ばれ負けにはならない。
自分や対戦相手が死に体となったら、無用な怪我を避けるため、その時点で廻しや相手の体から手を離し、力を抜かなくてはいけないとされている。勝負でもあるけど、神事でもあるのだ。

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でも、今の時代やはり理解されにくいのだろう。
勝負判定にビデオ判定が採用された1969年以降の大相撲では却って、死に体からでも無理な投げを打って逆転を狙う力士や、逆に勝負あったと力を抜いた相手にダメ押しをする例も見られ、力士の怪我の増加の一因とも言われた。
判定がクリアになるのはいいけど、どうですかね。
柔道も国際スポーツになって発展し、それはそれで素晴らしいけど、なにかが失われていくような、単に勝敗を競うだけでな「礼に始まり礼に終わる」という武道だからなあ。
さらに判定が微妙で理解されにくいような剣道も国際化して欲しいような欲しくないような。国際化して一般化すれば日本の今の判定方法はいずれ変わってしまうような気がする。
さて今場所の取り組みで7勝7敗で千秋楽を迎えたのは、御岳海、玉鷲、逸ノ城、千代翔馬、隠岐の海の5力士は4勝1敗だった。
ほぼレヴィット教授のデータ通りだった。
全てをルール化して明確化するのもいいけれど、すべては規定できるものでないし、規定の外にあるもの、曖昧なものも認めていかないと、光と闇の二元世界になってしまい、黄昏どきに住まうものを追いやってしまうよ。
僕、黄昏どきが好きなんですよ。
「暮れそうで暮れない黄昏どきは」(南沙織)や「夕暮れ時は寂しそう」(N.S.P)であっても、そして、たとえひとりぽっちでも。

テーマ:大相撲 - ジャンル:スポーツ

村上龍・村上春樹・金子勝・五木寛之…少数派の原則
新聞などを見ると、これからの高齢化時代、偏屈・暴走老人にならないためにも人と触れ合ったり、趣味を持つなど呼びかけたりするけど、これがなかなか難しい。
とりわけ、男の人が難しいらしく、まあ、僕などもともとがオタクで、今さら趣味以外で出るのも億劫だものなあ。
こういう生きにくい、迷いやすい時代になると人生論ような本が生まれ、金言・箴言が聞こえてくるのだけど、最近は逆説的な本も増えてきた。村上龍は「無趣味のすすめ」というのを書いていたし、五木寛之の「孤独のすすめ」などはベストセラーになっている。ライトノベルでも「僕は友だちが少ない」というのもあるからね。
もともと人見知りで、さらにひねくれ屋だった僕はつい斜に構えてしまう癖もあって、友だちも少ないのだが、かっこつけて少数派を気取り、孤高の名のもとに友だちの少なさを正当化したりした!?

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まあ、村上龍によれば「少数派という原則」というのがあって、多数派への誘惑を断固として拒絶すること、それがヴェンチャーの原則である…などと聞けば、ヴェンチャーでもないのにそうなのだよとつぶやいたり。
もうひとりの村上、ノーベル文学賞に最も近いといわれる作家 村上春樹は、イスラエルのエルサレム賞を受賞したおり、政治情勢もあって受賞を辞退すべきの声が多いなかで、あえてこの賞を受けた。
そして堂々と強大な体制を壁に、もろくて壊れやすい人間を卵にたとえ、自分は常に卵の側に立つとスピーチした。
弱者・少数派に立つこそが自らの文学の基盤ということなのだろう。
優しい文学者は政治にもひるまない気骨の人でもあるのだ。
少数派の原則でもう一人思い起こすのが、慶應義塾大学の金子勝 経済学部教授ですね。
以前はTV番組でもよく見たのだが、最近はあまり見なくなった。
宿敵 竹中平蔵と対決していたときなどは立て板に水の竹中平蔵にずいぶん分が悪かったのだが、かつてインタビューで「オレは98人がAと言ったら、絶対Bと言い張る二人のうちの一人なんですよ。旧ソ連体制だったら、オレは今頃、市場原理主義者」と言っていた人なのだ。まあ、よくわかるけど、これでは分が悪い。
でも、たとえ分が悪くても「だからどうなんだ」と声を上げる人がいないと、世界はフラット化し、多様な世界は守られないのだよ、たぶん。おおっ、また正当化しているぞ。
画像は「陽当たり良好」より伊藤さやか。ね、少数派でしょう!?というか、マニアック!?

テーマ:現代小説 - ジャンル:小説・文学

人間とは何か 「BORDER 衝動〜検視官・比嘉ミカ〜」
名古屋市で知人女性を殺害し、仙台市で高校の同級生ら2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませて殺害しようとしたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた名古屋大の元女子学生(21)の裁判員裁判の公判が怖ろしく、また長崎県佐世保市の県立高校1年生の女子がやはり同級生の女子に殺害された事件。遺体は損壊され、そばには刃物や工具が残されていた。
あるいは 三重県伊勢市で起きた殺害を頼まれたという同級生殺人…。

こんな事件が下敷きにあるのだろう。「BORDER 警視庁捜査一課殺人犯捜査第4係」のスピンオフ「BORDER 衝動〜検視官・比嘉ミカ〜」が怖ろしい。かつては人智を越える怪奇な事件は悪霊や怪物などといった、まさに人でないものの仕業だったのだが、今やそんな怪奇な事件も人として起こり、ドラマや映画に描かれるようになった。
もはやファンタジーの世界ではないのだ。
外部に押し出していた人の狂気を現代は人の内在に見つけ出し、暴いてしまったのだろうか。
いずれも怖るべき事件で被害者の無念はいかほどか知るべくもないけれど、一方で加害者の動機・心の闇の徹底解明とか、命の教育が生かされなかったとか百家争鳴で、さまざまな過去の事件・経歴が列挙され解析が進むのだろう。
でも、たとえば今の医学が限りなく細部に入り、要因を特定してまた新薬を投与されるほど、実は精神医療を中心に患者は減るどころか増える一方で快気に至らないように、これは処方ではなく人間の根源というか本質というべき問題なような気もする。
戦争が典型で、あの非日常はおそらくいつもの人のままではいられない。
また穏やかな日常にあっても「魅入られたようなあの日、あの時」がいつやってくるとも限らない。量的・質的な差はあっても人間の可能性としてはあり得るのだ。でも、たとえそんな一瞬があってもそのほとんどは気づかぬままにやりすごすだろうし、表層に顔を出すことがあっても、なお、あのときの1本の電話、あのときの1時間の電車の遅れ、あのときのラジオからの声、あのときの虹、ささやかなことで多くの人が大なり小なり、うまくやり過ごし日常に戻るのだ。
僕だって小学生のとき岩山で遊んで転がり落ちたときは死んでもおかしくなかったし、大学でデモに誘われたとき行っていれば闘争に巻き込まれるほどに入り込んでいたかもしれないし、怪しげなカルトの勧誘に引っかかっていればどうなっていたかわからない。日常には非日常の扉がそこかしこに潜んでいる。

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ほんの些細な折々においても全く別の人生があったかもしれず、でもそれはそれぞれに間違いなく僕なのだ。
僕の学生時代に流行ったものにゲシュタルト心理学があり、全体は部分の総和以上のものである…というものがあるけど、個人が組織・国家とかに囚われたときのパワーは良し悪しはともかく総和はやはり部分を越えるのかもしれない。
だから正義・宗教の名のもとに戦争が正当化される。
人間も実は同じで単なる細胞分子の塊ではなく、それらの総和となりえて人間たりえているのであれば、因子のひとつひとつを探ってもさほど意味がないのかもしれない。
繰り返しの鳴るけど、文豪トーマス・マンはルーブル美術館を訪れ絢爛たる巨匠達の作品を眺め、かくのごとく記した。
「人間は罪を犯してきた。獣のようにふるまってきた。しかもその間に絶えずこういうものを生産し続けてきたのだ。この場合、これらのものの、根源をなす人間の神的な部分と獣的な部分を区別するのは誤りではないだろうか。確かにこの両者は人間の全体よりほとばしり出るのだ」。
人間とはなにかを問いかける問題なのだと思う。

それにしても波瑠って、「BORDER」 、「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」といい、あるいは「おそろし〜三島屋変調百物語」など、境界を彷徨う役柄が多いんだろう。
道徳を科学で説くことはできない
人をいじめると脳から毒が出るので、いじめは良くない…小中学校で、そんな「脳科学」を根拠にした道徳の授業をする先生たちがいるらしい。他にも「プラス思考をして人に親切にしたり善い行いをしたりすると、脳からβ-エンドルフィンという良いホルモンがでます。(中略)「あなたはこの世に必要な人です。長生きしなさい」という神様からの言葉なのかもしれませんとかがあって、これを書いた先生によれば、「作り話や物語で教える道徳は、自分でも上滑り感がありました。科学的根拠がある方が、子どもに対して説得力があります」と。でも、それって科学的に正しいのか? そもそも、いじめって「科学的にダメだからダメ」なのか?と議論も巻き起こっているらしい (朝日新聞より) 

回答として「根本的な話として、脳の活動と善悪は関係ありません。人体は誰でも同じ仕組みですが、何が『善い』かは文化や状況によって変わります。だから、様々な『善い』に対応する画一的な体の反応はあり得ません。単純化は危険です」「哲学の世界では知られたことですが、『○○である・でない』と『○○すべきだ・すべきでない』の間には絶対に埋まらない溝があります。つまり、科学が教えてくれる『である』をいくら積み重ねても、『すべきだ』にはなりません。その間を埋めるのは、あくまで道徳的な判断です」「そもそも、道徳の授業の目的は、児童生徒の道徳的な判断力を養うことです。その判断を児童生徒自身にさせず、『科学』という権威を使って判断結果を押しつけようとするのは、不適切です。文部科学省の唱える『考え、議論する道徳』と対極ですね」(with news)とあったけど、まあ、そうだよなあ(長い引用ですみません)。

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ぼくは科学を信じる者だけど、科学的な事実を知る、認めることだからね。
包丁、あるいは自動車・飛行機などでも武器にもなるというのは物理的な事実だけど、武器とならしめないとするのが道徳であり、その道は科学で説くことはできない。
あきらめて、それさえ科学に委ねようとすれば、あっという間に科学に圧倒される。科学的事実だからね。圧倒的に重いのだ。
だけど科学的事実であっても、それをなすべきか常に逡巡し、立ち止まってしまうのが人間でもある。
でなければ、愛も性だって生物学にのみに収れんされてしまい、すべての古今すべてのロマンは幻想となり、弱肉強食・種の繁栄になってしまう。
AIがどれほど進化しても、使うのは人間だと思っていても、もう知らぬ間に科学の軍門に堕ちているのもしれないなあ。
道徳も科学に委ねているようでは…と思うんだけどなあ。
画像は雑誌「ムー」より。SF、オカルト、科学と混在してたけど、面白かった。
「この声をきみに」、そして「朗読屋」
たびたび、不幸にも放送が順延されるNHKドラマ「この声をきみに」ですが、僕は好きですね。
竹之内豊が優しくも寂しい「心の分からない」変人数学者を演じていてぴったりです。
静かにブームらしい朗読教室を舞台としたなにやら切ないヒューマンコメディー?
しかし、「朗読」ってなんだろうなあ。
以前にやはりNHKプレミアムで山口発 地域ドラマ「朗読屋」というの見たけど、こちらも妻に去られた男が主人公で、やはり「心の分からない男」が似合いそうな吉岡秀隆だった。
ちょっと異空間のような24時間図書館で朗読に巡り合い、変わっていく展開も似たような感じで、「この声をきみに」が谷川俊太郎で、かたや「朗読屋」は中原中也なのは、まあこちらは山口発 地域ドラマですからね。
昔というか今でもあるのだろうけれど、ラジオでは朗読というのがあって短編小説などを聞いていた記憶があるけれど、鮮明なのはロマン・ロランの「ピエールとリュース」。
やはり心に入ったのだろう。すぐに文庫を買った。

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僕が遅ればせながら本好きになったのはラジオ朗読のおかげかもしれない。
しかし、谷川俊太郎、思わずこちらも声に出しちゃうじゃないですか。
たしかに少し心を解放するような。
ちなみに「朗読屋」で吉岡秀隆が読み聞かせる相手は市原悦子だったけど、吉岡秀隆の声もいいけど市原悦子さんこそ、朗読の名手ですね。もう一つついでに言うと24時間図書館の司書は吉岡里帆でW吉岡だった。
読み手のうまさもあるけど、「この声をきみに」の麻生久美子ように「この声」が好きというのもあるからなあ。

テーマ:詩・ことば - ジャンル:小説・文学

風に吹かれて、最後はきっとうまくいく
夏休み明けに増える子どもの自殺を防ごうと、不登校支援などに取り組む団体が居場所を開放したり、子どもや保護者からの相談を受け付けたりしている。25日には5団体が合同で緊急メッセージを発表。「つらい時、支えてくれる味方はここにいる」と呼びかける。
「学校へ行きたくないあなたへ 味方はココにいます」と題した緊急メッセージを発表したのは、全国不登校新聞社など五つのNPO法人。「つらければ学校を休んで」と呼びかけ、相談先や学校以外の居場所の情報を提供している。(朝日新聞デジタル)

もう、夏休みも終わってずいぶんと経つけど、やはりこういう事件は起きますね。
ちょうどドラマでも居場所のない子供たちに親子丼を食べさせてくれる「さくらの親子丼」というのが始まり、まあ、ちょっと話が粗雑ではあるけれど、こういう場所、こういう時間で救われるということはあるのだろう。
やっと学年が変わったり、小学校から中学校、中学から高校へとようやく辛い環境から離れ、新しい環境でと希望を持っても、また繰り返される虐めの絶望感、そうでなくてもなにかしら漠とした不安に憑りつかれる「時」があるのが青春。
なにか電話のひとつもあれば、何気ない言葉のひとつでもあれば、とにかく「その時」を越える何かしらがあれば踏みとどまるというか、とりあえず先送りされたり、そのまま忘れてしまうこともあるけれど、魅入られたようにすーっと行っちゃうときがあるのだ。
先送りでは解決にならないけど、なお、解決への道はつなげます。
大阪大学の金水敏文学部長の言うように解決しなくても「これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である」とも言えるし、そんなに難しく考えなくても「その時」なにかしらあればその問題から自由でいられるのだ。
少しだけでもいいので、とにかく立ち止まって。解決しなくても死の誘惑をやり過ごせるこもしれない。
なにか電話のひとつ、何気ない言葉のひとつ、ふっと頬をなでる風でもいいかもしれない。そして、もちろん親子丼でも。

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17歳の遺書(神田理沙)」などを見ると、こんな強い子でも死に魅入られるのだからね。
やり過ごせば、解決するかもしれないし、解決なんかしなくても風に吹かれて、最後はきっとうまくいくかもしれないのだから。

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こちらは映画化もされた「二十歳の原点」。立命館大生 高野悦子が自殺し、後に遺稿をもとに「二十歳の原点」が出版された。
彼女は「一人であること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」といって人生を閉じてしまった。
青春の悩みは永遠に変わらず、さまざまに形を変えてやってくる。
過労自殺の向こうにあるもの
新国立競技場の建設作業員が過労自殺した問題で、別の元作業員が、現場で予定変更が相次ぎ作業員に負担がかかっていると証言した。この問題は新国立競技場の建設現場の23歳の男性作業員が過重労働が原因で自殺したとして、遺族が労災を申請したもの。別の作業員の男性は日本テレビの取材に、新国立競技場の設計変更の影響で工期に余裕がなく、特に負担がかかっていると証言した。(日本テレビ)

もう旧聞となるニュースだけど、今日の報道によれば新宿労働基準監督署が男性作業員の死を労災と認め、これは労災の認定としては異例の速さだという。
電通の過労死事件が大問題になったこともあるのだろう。当時の塩崎恭久厚生労働相はすぐにも現場で他にも過重労働の実態がないか調査を始めたとし、また、その後の証言ではさらに上司のずいぶんなパワハラ発言もあったという。
もちろん、これは論外なわけだけど、基本的に東京オリンピックが2020年に決定していて、予算云々のまたこれも座視できない問題ではあるにしろ、初めから設計のやり直しなどスケジュールを極めて窮屈なことにしてしまった責任はどこにあるのだろうか。
オリンピックの期日は決まっており、それらの紆余曲折の最後のつけは結局現場に来るのだ。
間に合う前提であっても何が起きるかわからず、ましてや動かせない期日のあるものであればなおさら余裕をもってすべきと思うし、やむを得ない事情でそうなったのならば、ハードスケジュールからのリスクも予想され、あらかじめ配慮があってもよかったと思うけど、いつも事故・事件が起こってから。
これこそ、まさに「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」。

さて、関ケ原での古戦場サミットに「反戦運動家は何をしておる!」 と思わぬ異議を唱えた呉智英。
岐阜県と同県関ケ原町とが関ケ原古戦場を世界三大古戦場の一つとし、あとワーテルローとゲティスバーグの二都市を招いて古戦場サミットを開き、「歴史の授業で有名なわりに観光にいかせていない」と「歯がゆさがあった」とし、「世界3大の名乗りは気宇壮大」と朝日新聞「天声人語」が声援を送ったというのだ。
私はこの「天声人語」が掲載されるや、朝日新聞と岐阜県・関ケ原町に全国から抗議の声が殺到するのではないか、と思っていたが、今に至るまでその気配はない。 全国の反戦運動家の諸君は、何をやっておるのか。明々白々の戦争礼讃、しかも背後には観光資本の貪欲な営利追求主義もある…と例の皮肉な批判が続きます。
ワーテルローはナポレオンの野望を打ち砕く抵抗戦争と言えば言えなくもないし、ゲティスバーグは黒人解放戦争の始まりと言えば言えなくもない。 すべての戦争は悪である、正義の戦争などない、という絶対平和思想がある。
私はこの思想にそれなりの意義は認めるものの、賛成することはできない。抵抗戦争、解放戦争は、やはり支持したい。
しかし、関ケ原の戦いは抵抗戦争でも解放戦争でもない。諸侯の領土拡張戦争ではないか。

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うむむ、例によってひねくれてはいるものの見事な論理展開。
こんな凄惨な戦争を無批判に賞讃し、あまつさえ観光資源にして金儲けをしようという計画を許していいのだろうか。
1945年3月26日から6月23日まで、沖縄では壮絶な戦闘が続いた。同年8月6日、広島に原爆が投下され、同月9日、長崎にも原爆が投下された。 これを「歴史の授業で有名なわりに観光にいかせていない」と「歯がゆく」思う人がいるだろうか。
沖縄の戦跡で「沖縄戦祭り」が開かれ、子供たちに軍装させて行進させるだろうか。
広島・長崎で模擬原爆投下のパフォーマンスが行なわれ、観光客が歓声を挙げるだろうか。
いや、ほんの七十年前の戦争と四百年も前の戦争とでは、わけがちがう、という声もあるだろう。
それなら、戦争から何年経ったら、そういうお祭り騒ぎだの観光資源化だのも許されるのだろうか。

戦争体験の風化が進み、沖縄戦や原爆の惨劇さえ忘却されようとしている。風化忘却を嘆く声は強く、私もそれに共感する。
しかし、風化忘却の勢いは抗しがたい。関ケ原観光資源化がその証明である。
「天声人語」はこう結ばれている。「歴史の面白さを知る糸口として格好のテーマだろう」。私は「歴史の面白さ」ではなく「歴史の悲情さ」だと思う。

先の過労自殺といい、目先や、センセーショナルものばかりに目を奪われていると、もう一方の真実を見失っているのかもしれない。この二つを関連付けようとはちょっと強引だったか。
ほとんど呉智英さんの引用で終わってしまった。
画像は「関ヶ原合戦図屏風立版古」。

テーマ:社会ニュース - ジャンル:ニュース

ノーベル賞 文学賞はカズオ・イシグロ
カズオ・イシグロ氏がノーベル賞 文学賞を受賞です。
小説は読んでいないのだけど、原作の「わたしを離さないで」が映画化されたり、日本では連続ドラマ化もされ、主演の綾瀬はるかとカズオ・イシグロ氏の対談も見ていた。
対談大丈夫なのか、綾瀬はるかとも心配になるけど、僕は香川照之の「具志堅=綾瀬はるか」理論を信奉するものだからね。
映画は未見だけどドラマは出来がよく、このブログでも複数回書いた。
臓器移植、クローンなど暗く重いテーマながら、その運命づけられた世界を幼少期から丁寧に描いて、諦観ともいえる心が制限された青春のなかで形成される様子が怖ろしくも切なく、それでもほの見える外の世界や、留めることができない心の揺らぎ。
登場人物の言葉づかいも皆きれいで、大切で貴重な時間を生きざるを得ない特別な世界観が強調されるようだった。
言葉を覚えるのは教育の賜物だけど、言葉を大切にするのはそれだけじゃないのだ。
「わたしを離さないで」は主人公たちは人としてさえ認められない。

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現代は過度の情報があふれ、情報に流され、おぼれ、あるいは呆然と眺めるだけなのだけど、また過度に制限されても異質な世界観が浮き上がってくる。
これが極度に政治的で組織的・国家レベルになってくると北朝鮮みたいなことにもなるけど、個人に焦点を絞れば限られた世界、時間を諦観、反抗、様々な葛藤がありながらも精一杯に生き抜く魂の物語。
象徴的に表れるのは言葉で、僕などは思わず余計なことを言ったり不要な修飾語が多かったりするけど、「わたしを離さないで」のなかで生きるものの言葉は現代社会に溢れる言葉を削り取って選び抜かれた言葉のようにシンプルで美しい。
選び取られた言葉は語られない言葉も溢れさせる。
まあ、「猿の惑星」のように言葉まで奪われることになると、そんな魂の物語も失われるのだけど。
骨太なSFドラマであり、可憐な青春恋愛ドラマであり、なおかつ若者の心の機微を描く香り高い純文学のようなドラマだったのだ。
そして、十二分にエンタテインメントでもあったと思ったのだけど、視聴率は伸びなかった。
再放送はされるのだろうけれど、いわゆる再放送枠ではなく、堂々たる時間帯でしてもらいたいものです。
また「わたしを離さないで」の空虚感にはタバコが似合っていて、印象的だった。
まあ、小説は読んでいないんだけど。妄想だなあ。

テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

「文通」ふたたび!?
短文ならLINEで、長文ならメールで即座に要件や自分の気持ちを伝えられる現代。一方、文通が若い女性の間でブームだという。
「青少年ペンフレンドクラブ(略称:PFC)」を運営する、日本郵便によると、’16年始めに6973人だった会員数は、’17年8月1日時点では、9112人にまで増加しているそうだ。
「今でも平均毎月約200名の申し込みを受け付けています」(日本郵便)
学校で顧問教師の指導のもと、教育活動の一環、またクラブ・部活動、同好会などの形で入会する生徒も多いため、年齢構成比は10代までが28%と最も高く、男女比の方は83%で女性だ。ちなみに入会すると、会員情報誌「レターパーク」が毎月、手元に届く。「ペンパル紹介」ページに掲載された人と文通をしたい場合(国内文通のケース)は、「ペンパル紹介申込書」に加え、掲載者に送る「自己紹介の手紙」をPFC事務局に郵送、そこから相手に転送してもらう。Facebook上で瞬時に友達になれることを考えれば、どこまでもアナログな手段といえよう。
「SNS等リアルタイムに回答しなければならないコミュニケーションに疲れた方々が、肉筆の手紙に癒しを求めて、文通に回帰しているのかもしれません」(週刊SPA!編集部)

昔の雑誌には必ず文通欄があって、住所や名前はもちろん、年齢も載っていた。
今のような便利なツールはなかったけど、それらをとことん利用するというような商売っ気も悪意も何もなかった時代。
思えば家のドアもろくに鍵もかけず、窓も開け放して眠った時代。
手紙も書くまでにさまざまに悩み考え、書くときも字の下手さ加減に落ち込み、何度も書き直し、ポストに投函するときなってもなおためらい、出せば返事を待ちわび、郵便受けを覗き込む毎日。
封筒を切るにも手で破いたり、ハサミを使ったり、シャレてペーパーナイフを使ったり。
封を開ければ、その便箋に、その文字に、その言葉に心震わせる…。
まあ、そんな「ツバキ文具店」的な物語も人知れずあるというものです。

あなたは常々言っていました。字とは人生そのものであると。
私はまだこんな字しかかけません。でもこれは紛れもなく私の字です。(ツバキ文具店より)

フォントを選ぶだけの時代、人生はどうなってしまうのだろうなあ。

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作家でも昔は本に住所が載っていたのもあったな。僕のいちばん最新の記憶では「カンタン刑」(式貴士のデビュー作)に住所も電話番号も書いてあって、その後もしばらくは書いていた。
アップルから「iPhone X」も発表されてますます高機能になっていくけど、機能が付加された分、なにか人から奪われていくような気がしないでもない。

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こちらは投稿おしゃべりマガジン「ポンプ」。ペンフレンド募集でもなんでもないけど、多くの投稿者の住所がきちんと書かれていた。
場合によっては写真も載っていたからなあ。というわけで投稿ページの画像は掲載できないし、式貴士さんも今はそんなことはされていないようなので伏せました。
ネットの先駆けのような雑誌だったけど、記名でも自由で幸せな時代だったな。
効率を求めて、あらゆるものを活用する時代、その便利の代償は人にとっていちばん大切なものだったのかもしれない。
無駄や迂闊であっても緩くて豊かで自由な自分や世界のほうが心地いいかも。

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時の花、真の花
もう終わってしまったけれど、たびたびの「やすらぎの郷」からです。

姫 九条摂子(八千草薫)はゴンドラの歌が好きだったそうです。
(いのち短し 恋せよ乙女 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを)
姫が秀さん(藤竜也)に言ったそうです。
「秀さん、私、――何だかずうっと死なない気がするのって」
秀次「世阿弥の花伝書に従えば、若い時代の姫の美しさは彼の云ういわゆる“時の花”です。それに対して今の美しさは、幽玄を秘めた“真の花”です。今の方が自分は美しいと思います。」

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まあ、そうかもしれないけど、人は所詮、時の中に生きるものだからなあ。
永遠に生きる者たちさえ、たいてい物語のなかでは若さゆえの美しさに固執する。
やはり“時の花”だからこそ、二度とない一瞬のきらめきだからこその美しさなのだろう。
また、坂口安吾は「堕落論」のなかで、こうも語っている。
数年前に私と極めて親しかった姪(めい)の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まっさかさま)に地獄へ堕(お)ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕(お)ちて暗黒の曠野(こうや)をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘(かかわ)らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落(りんらく)自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。

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人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
…となるのだが。

画像上は三浦友和主演「星と嵐」。友和を挟んで微笑む二人はサラダガールコンテストで1位になった古手川裕子と準ミスだった名取裕子ですね。
古手川裕子16歳、名取裕子18歳の映画デビュー水着写真だけど、まさに“時の花”。
はじけるような笑顔ですね。女性がヌード写真を撮っておきたいって気持ちもわかるような気がする。
秀さんだって、“時の花”をさんざん愛でてのうえでの“真の花”ですからね。
まあ、それでもいつまでも人は“時の花”に惑うというのが「やすらぎの郷」。それが人は生きるということ…なのか。
画像下は映画「雪の断章」。人は惑う。

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慎ましく健気な薄幸系女優
ここ最近の話題になった“恋愛ドラマ”といえば、『あなたのことはそれほど』(TBS系)に代表される“ゲス不倫ドラマ”や、『逃げるは恥だが役に立つ』(同)などの“契約恋愛・結婚”といった、現代の恋愛の形を体現するラブコメものが挙げられる。だが、かつては不治の病にかかったヒロイン×それを支える恋人…といった、いわば“薄幸ヒロイン系ドラマ”が恋愛ドラマの“王道”だった時代もあったのだ。しかし今では、薄幸系ドラマはほとんど放送されなくなったし、それに伴い薄幸ヒロインを演じられる“薄幸系女優”も少なくなったようだ。果たしてこのまま薄幸系ドラマは絶滅してしまうのだろうか?(オリコンニュース)

とあって、薄幸系女優は今や木村多江の一人勝ちみたいに書かれていたけど、そんなこともないでしょう。
僕の好きな薄幸系女優はもう少し優しく儚げな奥貫薫さんですかね。
富田靖子さんなどもまさに「さびしんぼう」の薄幸ヒロインから、そのまま薄幸系女優?になってしまったけど、まあ、薄幸、幸薄くても健気に慎ましく生きていく、まさに「さびしんぼう」のイメージだからね。人がどう思おうと薄幸とはちがうのかもしれない。

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一方、最近の木村多江さんは薄幸を逆手にとってたくましく生きていく作品も増えてきた。「就活家族」もけっこう怖かったし、「市長死す」などはそれはもう。

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薄幸ヒロインならいまは蓮仏美沙子かな。
薄幸系女優に限らず、もっと昔は幽霊やお化け系の女優?もいましたね。
木村多江さんも当初は死体女優とも言われていた。
やっぱり、幽霊は日本的な美しい人がたぶん似合うのだろうなあ。「四谷怪談」の小雪や高岡早紀などがその典型で、仲間由紀恵や北川景子も演じればさぞや美しく怖いことでしょう。
さらに若手でいえば波留でしょうか。彼女も「BORDER」「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」とか「おそろし〜三島屋変調百物語」など生と死のはざまにあるような役柄も多かったからなあ。
この系譜ではないけど、もっと怖ろしいのは未見ながら噂にも聞く新藤兼人監督作品「鬼婆」で、主演は姑の老婆に乙羽信子、若い嫁に吉村実子。いや、ストーリーを読んで想像するだけでも震え上がってしまった。人、女が抱え込む根源の闇というか。
あれ、薄幸系女優の話が幽霊、恐怖映画女優になってしまった。転化しやすいのか。
貧乏系だけど薄幸系ならぬ多幸系のお母さん女優としては石野真子がいます。

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