理系・文系を重ねて見る光景は
進化のための存在と時間
最近のスマホの急速な進化、あるいは本でもレバレッジリーディングなどという効率のいい読み方があるらしいけど、科学、文化、あるいは進化でも本来は着実なステップを踏むものではないかなあ。
近代までは例えば電話もベルの発明から電話機・電話線・電柱などが必要とされ、少しずつ改善されながら、そのインフラには膨大な費用と時間がかかり、そのうえにゆっくりと熟成するように生活、文化が育まれ、人間も成長してきた。
携帯、スマホに至るまでに日本では明治から昭和にかけて、人々との長い電話の歴史、それにまつわる物語があるのだ。
今はそういうインフラの整わない場所でもいきなり通信は可能となり、いわゆる先進国と変わらぬ状況があっという間に作られ、長く育まれた生活や文化も経済的裏づけがあれば簡単に彼の地にも取り込むことが出来るのだ。
これは文明の公平化というか、経済、あるいは教育などの格差をなくすための強力な武器ともいえるけど、長く積み上げ文明・文化を経て持ち得たものと、経ずに持ち得たものとの差は果たしてないのだろうか。
ピケティは金持ちは資産の運用で稼ぐことができ、その収益のほうが給与所得者の収益の伸びを上回っているから、給与所得者はどんなに頑張っても追い抜けないとしたけれど、ほんとうの資産というのはまさに「長く積み上げてきた時間も含めての文明・文化」ではないのか。

sonnzaitojikann.png

効率の名のもとに実利的な部分のみを残し、いともあっさり投げ捨ててしまうのはほんとうの資産を失うことではないか。
あっさり捨ててしまうものにこそ、測れぬ価値があるのかもしれないぞ。
経済の指標は数字として残るし、お金など資産も形として残るけど、長い時間をかけた文明や生活・文化ももちろんほんとうに人間が叡智と感性をかけて作り上げた資産なのであり、伝承されなければ二度と取り戻すことはできない。
幸いにして古来より多くを残す日本の多くの遺産だけど、その名もなき姿なき遺産もアベノミクス的思考のみでは多くを失うのではないか。効率よく国際競争に勝ち抜こうとすれば日本語すら失いかねないからなあ。
シンプル化、フラット化は効率や公平化に繋がるものではあるけれど、せっかく急峻な山、深い渓谷、唸る大地と寄り添い、それゆえ豊かで美しい自然と調和してきた独自な文化をグローバルスタンダードの名のもとに捨て去るのではなく、常に新たなる可能性として守り提示し続けるものではないだろうか。
現実のなかでそのバランス、調和を図るのが大人の、政治の知恵であり、多様な自然・文化に育まれた日本の知恵。

画像は読んだこともない「存在と時間」。まあ、ハイデッガーなんて筒井康隆と笠井潔の小説で知るのみなので、こんな話になってしまうのだけど。
スポンサーサイト
あまりにアーキテクチャな「秋の5連休案」、もしくは衆院解散
政府は「働き方改革」や「休み方改革」を掲げていて、まあ、「プレミアムフライデー」(プレ金)もその一例だけど、さっぱり浸透しないなか、さらには公立学校の長期休みを別の月に振り替え、大型連休を導入しようする「キッズウイーク」構想もありますね。
家族で過ごす時間を増やし、地域振興にもつなげようという狙いらしい。

デジタルな時代とはいえ、あまりにアーキテクチャな発想に偏りすぎではないだろうか。
(以下、再掲・再編集)
近くの公園にあった質素ながらいい感じの木製ベンチがいつのまにか、真ん中の部分に仕切られるように板が打ち付けられてしまったけれど、あれは仕切りではなく、どうも横になって1人で占有することを防ぐためのものらしい。
たしかにわがもの顔で占有する人がおり、注意するには勇気がいるし、ならば寝転がることを不可能にしてしまえということなのだが、しかし、時には疲れて横になったり、病気、障害の人もあるから自由度が高い方がいいに決まっている。
一部マナーが欠けるからといって、それを目安と整えていくのでは日本人の公徳心も風前の灯。
手っ取り早く問題を処理できるのかもしれないけど、利用する人が多いときは遠慮するというのが当たり前のマナー、本来の教育ではある。
アーキテクチャというのはもともと建築用語で建築物の構造や設計を意味したらしいけど、今でコンピュータの構造・設計思想にと主に使われ、さらには人間の行為を制約したりある方向へ誘導したりするようなウェブサイトやウェブコミュニティの構造、あるいは実際の社会の構造もアーキテクチャという。

img60836439.jpg

社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導するのは、なにか動物園のなかに囚われているみたいと思うけど、たしかに合理的ではあるのだ。
「ここは危険だから柵をつけましょうとか、監視カメラをつけましょう」というのは安全をはかるものだから異議は唱えにくいけど、やり過ぎれば、本来の人間の危険を知る能力や道徳とか規範は失われるような気がしますね。
「キッズウイーク」構想も「働き方改革」「休み方改革」というよさげな名分のもとにあるから怪しい。
人は堕ちやすいからね。
しかし、どうも世の中は自らアーキテクチャのなかに身を置くことを望んでいるようで、すべて社会が悪いのだという言い方も、アーキテクチャ世代の考え方になるのではないかなあ。
ガンダムが描くように地球連邦と、よりアーキテクチャにならざるを得ないスペースコロニーとではやはり対立することになるだろうし、技術・アーキテクチャにあまりに寄りかかると、「エリア11(イレブン)」(コードギアス)、家畜人ヤプーのように知らず知らず管理されてしまう…と思うのは悲観に過ぎるのだろうか。
まあ、まさに犬のような幸せもあるし、それもまた否定されるものでないけど。
家族と一緒に過ごすといっても、物理的な時間の問題ばかりではないと思うのだけどなあ。
と思っていたら、まさに政権維持のためのアーキテクチャな政治状況を読み取るような唐突な衆院解散となりますね。
解散の大義としてなかなかよさそうな名分が並ぶけど、「少子高齢化という最大の課題を克服するための大改革に挑戦する」ってなんだ。ずっと前からわかっていることじゃないか。
東南海地震など分からないことにずいぶん費用と時間を注ぎ込んだかと思えば、明確に分かっていた少子高齢化の問題、到来してしまってから大改革に挑戦するって。
これこそ、大地震などと違って、どのような方向性にしろ事前に十二分に対応、準備できたものなのだ。どうみても優先順位も科学的根拠も対応すべき課題はまず少子高齢化問題だった。
まあ、あまり並列に語るようなものではないけれど、どちらもタイミングよくニュースとなっていたので。
大義名分って都合よく抜き出すものなんだなあ。

画像は「アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか」
古代ローマ時代のコンクリート、カリオストロ公国の秘密
コンクリートは、年月が経つにつれてもろくなるのが普通だ。だが、古代ローマ時代に作られた岸壁のコンクリートは、時間が経てば経つほど強度を増していた。その驚きの理由が、米研究チームによって解明された。
古代ローマ帝国が滅亡したのは1,500年以上も前のことだ。だが、この時代に作られたコンクリートは、現在も十分強度がある。例えば、ローマにあるパンテオンは無筋コンクリートでできた世界最大のドームといわれているが、約2,000年経った今も強度を保っている。これは現代のコンクリートでは考えられないことだ(現在のコンクリートの寿命は、50年から100年程度とされる)。
なぜ、ここまで古代ローマのコンクリートが強いのか。その謎が解明されつつある。
古代ローマ時代のコンクリートは、火山灰、石灰、火山岩、海水を混ぜ合わせて作られているらしく、重要な役割を果たしているのが、最後の材料である海水で、この珍しい材料の組み合わせのおかげで、1,000年以上の時間をかけてコンクリート内で新しい鉱物が形成され、ますます強度を増しているという。

つまり、変化しているのだね。
日本地質学会が各県ごとに制定した県の石というのがあって、岐阜県の石は岐阜城を頂く金華山などのチャートで、もともとは赤道付近から移動してきたもの。赤道付近というのはもちろん海中で、チャートとは放散虫・海綿動物などの動物の殻などが海底に堆積してできたものなのだ。
岐阜市に隣接した僕の地元の各務原市でも見られ、地層は古生代から中生代のもので木曽川の露出したチャートからもジュラ紀あたりの放散虫が見つかったりするけど、億年単位の自然のスケールとはちがうけど、やっぱり海(海水)は偉大で、万物を変化させるのだなあ。
以前に大成建設が1000年劣化しないコンクリート柱を使ったビルの新築工事を開始したというニュースがあったけど、こちらは気密性を究極にまで高め、不純物を排除し、劣化のもとになる中性化を抑えるというものだったから発想は別のものですね。
変化することで強くなるもの、変わらないでそのままの強さを保つもの。
ドラキュラのように永遠の生命を求めるのか、人や花のように朽ち果ててもまた美しく生まれ変わるのか。ちょっとちがうか。
万物は流転するではないけど、やはり、自然に寄り添うようなもののほうが、柔軟で無理がないように思うなあ。
まあ、何でも変わらず残ればいいというものでもないだろうし。
古代ローマのコンクリートは自然に学ぶ形で作られ、たしかに海にさらされている防波堤などにはこういう発想が必要なのだろう。

kurarisu1.jpg

画像はアニメ「ルパン三世 カリオストロの城」。
カリオストロ公国最大のお宝というべき古代ローマの遺跡は湖に沈められていたことにより、誰の目にも触れることなく良好に遺跡は守られた。海水ではなかったけど。
もっともカリオストロ公国最大のお宝は「クラリス姫」という説もあるけど。
もう一つの妄想進化論
前にも「妄想進化論」というのを書いたことがあるけど、もう一つの「妄想進化論」です。
いつも通りの僕の妄想ですよ。論理の混乱・破たんがあっても妄想ですからね。

進化にもさまざまにあって、基本は生存競争に勝ち抜くために各々進化するのだけど、種が違えばもちろん、同じ種であってもその中で勝ち抜くためにそれぞれの競争をするのだけど、人間の場合、ある程度条件を揃えようとするのは社会性の生物であり、また、その平等の価値観を提示することによって、そのほうがむしろ競争、すなわち、より早くより良い進化、発展をもたらすからという経験則などによるものなのだろう。
経済活動も同様で、国も成り立ちも文化も成熟度も全く違うのに、まあ、ある程度には勘案しながらもまるで公平を声高に叫びながら、すべてのものをフラット化していきますね。
経済も競争だからそういう側面も多いけど、経済というのは文化など、より強く人間の社会生活全体を抱合するものでもあるから、あまり、その手法に偏るのはどうなのでしょう。
たとえば、独自に発展した日本アニメは「君の名は」の大ヒットのように様々な変化もありながら隆盛だけど、現場の疲弊は変わらない。フラット化して制作現場が海外にも拡大して競争が激しくなったからだ。
変わったというなら制作現場の疲弊の受け止め方で、フラット化したことによってなぜ僕たちがこのような待遇に甘んじなければならないのだという、ごく当たり前の生存競争の住人になってしまったことだ。
傍から見ればずいぶんな、また自らもずいぶんなとも思いながら、身を投じて作り上げた世界(作品)が認められ満たされていたものが、さらに世界中から評価されたのはよかったけど、その時点から世界市場となって競争のなかに入り、安価な労働力や技術によって表層だけが奪われていく。
競争にさらされていつのまにか、彼の地の住人の深層も表層の身にフラット化されてしまったような。
箱庭のような世界では競争といっても、それぞれの美学を争うようなものだったのに、世界市場なったとたん、冷徹な市場原理が飲み込み、あっというまに渉猟していくのだ。

esdigital_4534530091512.jpg

動物でも保護色、擬態など、なんでこんな方向に特化していくのかなってという感じの進化もあるのだが、これが自然の恐るべき多様性というべきなのだろう。弱肉強食は必然かもしれないけど、自然は腕力だけではない。異形、異相なものも受容する。
人は公平化の価値基準だけに安心して、経済の競争に身を投じていいのだろうか。
社会での強者として生き抜けても、それは人間の種としての力を削いで、地球の生物の種の王座は奪われるかもしれない。
まあ、それも生存競争ではあるけれど。
いや、アニメや漫画の現場のことなんだけどね。
クールジャパンで国が支援するのはいいことであるけれど、何か肝心なものが失われていく気がするんだなあ。
北斎も歌麿も若冲も好きなもの描いていただけで、貧乏も金持ちも関係なかった。
それによって独自になって永劫に生き残るのだ。
文学部は何の役に立つのか?
今さらの話ですが、今年3月、大阪大学の金水敏文学部長が卒業セレモニーで述べた式辞がツイッターで話題になった。
「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます…」というもので、世間からの「文学部って何の役に立つの?」という声に対する考えを語ったもの。
「税金を投入する国立大学では、イノベーションにつながる理系に重点を置き、文系は私学に任せるべき」といった意見が出たことかららしいけど、私学ならなお競争も激しく、文学部(哲学・史学・文学・芸術学等)などは余計生き残りが厳しいのではないか。
まあ、いずれにしても 医学部、工学部、法学部、経済学部などのように分かりやすく役に立つものではありませんからね。
国が求めるものは常に指数的になるから、就職率や経済活動、生活の利便性、社会の維持・管理などに貢献するものとなりがちなのだ。そこで冒頭の式辞。
「しかし、文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」
「今のこのおめでたい席ではふさわしくない話題かもしれませんが、人生には様々な苦難が必ずやってきます」
「恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です」
「その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう」
「人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです」(withnewsより、一部編集)

bunngakubut.jpg

昔はずいぶん「役に立つ人間になれ」と言われたものだけど、まあ、どう役に立つのまでは問われなかった。
「そんなことで食っていけるのか」とは言われたけど、裏を返せば、「食っていける」のであればよかったのだ。
貧しく昼も夜も働きながら、それでも町には生活には雑多なものがまじりあい、貧乏人も高等遊民も詩を詠んだりしたのだ。
強引にいってしまえば、文系の気概に溢れていた…ような気がするなあ。
「これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう」
とは見事な回答だけど、たとえ文系を学んでいてもそんなにうまく対象化し、客観的でいられるかは難しいような気もするけど、まあ、社会って指数だけでは測れず、指数の間(人生の岐路)を優しく人知れず埋めていくことはでき、少しの猶予、時間を繋いでくれるものではあるかもしれない。どうでしょう!?
もっとも今や文系だけではなく理系も基礎科学などは難しくなってきているという。
理系だって「すぐに役に立つ」ということばかりではなく、「どう役に立つ」のか、よくわからなくても研究するのが基礎科学だからね。
そういえば今年も日本人学者が受賞したイグノーベル賞だけど、やっぱりこういう情熱もなくては。
教員不足は子どもたちがわくわく!?
九州各地で教員不足が深刻になっている。年度当初の欠員が相次ぎ、福岡県では1学期半ばでも60人以上が不足していた。第2次ベビーブーム世代の就学時に採用された教員の大量退職が背景にある。切羽詰まって、「教員免許をもつ人を紹介して」と保護者に呼びかける教委もある。「担当外では満足に教えられない。これで学力をあげろと言われても無理」とある中学教員。別の小学教員は「教員はだれでもできる仕事じゃない。こんな状況では子どもたちにも失礼だ」と話す。(朝日新聞デジタル)

まあ、それはそうだけど。教員不足は戦時中や終戦直後などにもあって、ほら、よく聞くでしょう、代用教員って。
以前にも書いた作家 土屋隆夫氏は知る人ぞ知るマニアックなミステリー作家で、博学、教員もやっていた。
特に演劇関係の知識がすごくて、様々な劇作家の名前が出てくるのだけど、僕なんかは岸田國士しかわからず、その岸田國士も名前を知るだけで読んだこともない。
歌舞伎も好きで近松もずいぶん読んだとありますね。
なんでも役には立つもので、土屋隆夫が中学の教師だった頃も先生の数が足らず、英語、国語はまあなんとか、全くの門外の音楽、歴史なども教えたという。音楽は浪曲・詩吟、歴史は講談という具合に。
「大阪城落城」は得意中の得意で、そりゃあ、「果たして千姫の運命はいかに」と盛り上げて、いいところで時間となりましたなどとやられては楽しかったに違いない。
恒常的に不足というならともかく、一時的というなら、代用教員でもこんな楽しい授業があるかもしれない。
むしろ、こんなときしか、こんな先生に巡り合わないのだろう。
そして、実はこんなところから新しい才能も生まれてくる、たぶん。

keikakus.jpg

しかし。
「担当外では満足に教えられない。これで学力をあげろと言われても無理」とある中学教員。別の小学教員は「教員はだれでもできる仕事じゃない。こんな状況では子どもたちにも失礼だ」
まあ、そうなんだけどさあ。じゃあ、担当ならじゅうぶんに教えられるのか、むしろじゅうぶんじゃない先生のほうが教育にはなるのかもしれない。
というのも以前、芥川賞を受賞した中村文則の受賞直後のインタビューや特集記事で、高校の国語の先生はこう話したのだ。
先生いわく「彼の読解力はまずまずだった」。妙な違和感。まずまずの凡庸な学生が芥川賞作家になれるのか?
ふつうの授業での読解力で測りきれるものなのだろうか?ゆらぎのない先生の教育の姿勢にまずびっくりしたのだった。
たしかに教員は誰でもできる仕事じゃないと思うけど、なってしまえばだれでもできちゃうからなあ。
不十分な環境のほうがよほど子どもたちも意外にわくわくしてるかもしれないぞ。
子どもってなければ何か見つけてくるもので、じゅうぶんな環境って何ってという気もします。
僕も社会くらいは教員資格取っておけばよかったかも。
僕ならええーっと、映画とマンガとドラマと…くらいの知識では教室持たないか。
さだまさしなんか面白い授業できそうだなあ。

画像は僕の母校(小学校)の今はない旧校舎。入り口は門柱が4本建つだけで開け放れていた。

テーマ:中学校 - ジャンル:学校・教育

あだち充ヒロイン総選挙
「タッチ」の浅倉南、「H2」の雨宮ひかり、「みゆき」の若松みゆき......。数々のヒット作で知られる漫画家のあだち充さんが描いてきたヒロインの中で、人気ナンバーワンはいったい誰なのか。
「あだち充ヒロイン総選挙」は、2017年7月26日発売の「サンデーS」の誌上で開催された。あだちさんが描いた全15作品に登場する総勢38人のヒロインを「ADC38」と名付け、その中から「センター」を決めるというコンセプトだ。しかし、投票候補となったヒロイン総勢38人の「顔ぶれ」を見たネットユーザーからは、「見分けがつかない」との声も。  
投票候補となったのは国民的野球漫画「タッチ」のヒロイン・浅倉南をはじめ、いずれも人気キャラばかり。三角関係の恋愛模様を描いた「みゆき」からは、若松みゆき、鹿島みゆきの両ヒロインがエントリーしている。(J-CASTニュース)

ついに出たか。マンガ専門誌あたりではしばしば話題になったり、人気投票的なものもあったりしたのだが、とうとう総選挙か。
まあ、あだち充のヒロインは誰も総選挙など興味ないだろうけれど。
「あだち充は世阿弥である。 秘すれば花、『タッチ』世代の恋愛論」(ツクイ ヨシヒサ著)ではないけど、世阿弥ですからね、秘すれば花ですよ。総選挙で競うようなAKB的なことに彼女たちの興味があるはずがない。
「タッチ」などが典型で、もう幼なじみの出会った頃から好きなのに、もう最終巻まで告白しないのですからね。

adati.jpg  wakamatumiyuki1.jpg

言葉にしないと始まらないのかもしれないけど、言葉にすれば終ってしまうし、行間に思いを閉じ込め、溢れさせて、26巻まで持たせる何気に優しい力技。
見分けがつかないという声も多いらしいけど、僕はわかりますね。
行間ではなく、絵から、空間から立ち昇るなにかがそれぞれにちがい、長年の読者に植え付けられた何かが受容するのかも知れない。ほんとうか!?
まあ、僕は若松みゆきということで。

mwakamatsu.jpg

むしろ、AKB48や乃木坂46のほうが区別がつかなくなってきた。
いよいよ、年なのか。
「やすらぎの郷」の「空は限りなく」、もしくは「キャプテンウルトラ」
すこし前の「やすらぎの郷」で糸川博士(日本ロケットの父、ペンシルロケットの開発者)のテレビ黎明期のホームドラマのエピソードがあって面白かったですね。
その菊村先生(石坂浩二)と九条さん(八千草薫)との会話から。

生放送の頃の…。あれはなんて言ったかしら?麹町のスタジオで…ほら…ほら…初めて日本のロケットが飛ばされた…。
あっ糸川博士ですね。
そう。その一家の方のホームドラマ。 「空は限りなく」。
それです。
ええとなんて言ったかしら?ラストのシーンで…ロケットが空に上がっていくところ。
ああ!一家が空を見上げてみんなで泣くところ。
その時…。あのシーンで…あの方なんて言ったかしら?ほら…音響の…音響の…。すぐトチる…。
ハハハハハ。トチ坊ですよ。
そうトチ坊さん。
フフフ…。覚えてますよ。
あの時大トチりをして…。
あれからトチ坊トチ坊って呼ばれるようになったんです。
生放送でロケット打ち上げるところはフィルム差し込んで音はサブコンからディスクで出すって…。
ディスクってレコードですよね。
そのディスク、トチ坊が間違えちゃってロケットの音を出さなきゃいけないのにセミの声出しちゃった。
ハハハハ…。
オーシンツクツクオーシンツクツク。
本当にね…。最後のロケットがこう上がっていく感動的なラストなのにそのロケットが…。
オーシンツクツクオーシンツクツク。
姫の一家がもう…見上げて吹き出しそうなのをこらえて泣いてた。
オーシンツクツク…。オーシン…ツクツク…。
よかったですよね、あの頃のテレビは。

さすがは倉本聰。夢と現が交錯するなかで語られるエピソード。上手いなあ。
さて、こちらは僕の虚実ないまぜの妄想エピソード。

sw1.jpg

あれはなんて言ったかしら?東映のスタジオで…特撮ドラマが始まったばかりの頃の。
あっ、小林稔侍が変な宇宙人の格好で出てくる…
そう。円谷プロの「ウルトラマン」に対抗するように作られた…
「キャプテンウルトラ」ですね。
それです。
ええとなんて言ったかしら?みんなが乗り込む宇宙船。
ああ!宇宙船シュピーゲル号。
あのシュピーゲル号の発射音…
ハハハハハ。あれですね。
そう、あれ。
フフフ…。覚えてますよ。
あの大迫力の発射音がどうにも見つからなくて。
トイレの水洗の流す音を使ったんです。まだ、紐を引っ張るような水洗トイレ。
いい音でしたわね…。
誰も気づかなかった、まさに発射音でした。
シュゴー、ゴボー、ゴボシュアー…
ハハハハ…。
本当にね…。あのシュピーゲル号の発射音がまさか…。
シュゴー、ゴボー、ゴボシュアー…
わたし、発射音聞くたびにおかしくて吹き出しそうなのをこらえて泣いてた。
僕はトイレでシュピーゲル シュピーゲル シュピーゲル スリー トゥ ワン ゼロと歌って、エイッと水を流したものです。
シュゴー、ゴボー、ゴボシュアー…
よかったですよね、あの頃のテレビは。

ははは、久しぶりのパロディでした。
画像は「スターウルフ」。糸川 英夫博士が監修した。

テーマ:懐かしドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

人外は微睡に潜む(後編)
人外は微睡に潜む(後編)

(承前)彼女は動けなかった。彼が近づく。
「わかっていたよ、君は来るって」
彼女は操られるように車に乗った。
(わたし、何しに来たんだろう?)
彼は運転しながら、もう彼女のスカートに手を入れて脚を触っている。スカートの奥に届く。彼女は震えるばかりだ。
「開いてごらん」彼は言った。
「いや」
「いつも最初はいやなんだね、でも」
「ほら、開いてごらん」
彼女は自動人形のように脚を緩める。ショーツが濡れた。彼女は今やそういう女なのだ。
彼は人気のない駐車場で車を止めた。
「君はホテルよりこういう場所のほうがいいだろう」
もう夜の帳が下りていた。
彼女はすべてを脱がされている。抵抗はできなかった。むき出しにされた彼女に彼がのしかかってくる。
「これだけはやめてほしいんじゃないの。君は逃げられるのだよ。僕に触ってごらん、でも撥ねつけることも、握りつぶしてくれてもいい。君の自由だよ。どうするの?」
彼の躍動する熱いものが手に触れる。彼女は恐る恐る触れ、少しずつ手のなかに握りしめられる。熱く握りしめたものは彼女が欲するものだった。
「ああ」
彼女は熱く躍動するものを熱く濡れた彼女自身に誘った。彼女の腰が意志を持つように動き、するりと奥深くまで入った。
信じられないような快感が走る。彼はゆっくりと躍動させ始めた。彼女は狂ったように腰を、身体が獣のように躍動した。

彼女は彼の連絡を待つ女になっていた。まだ三度会っただけなのに、彼の女になっていた。
「この前は公園に行けなかったね」
公園を歩いていた。
「最初、公園の途中で口数が減っただろう?」
そう、そんなことがあった。
「外灯も減って薄暗くなって怖くなったんだろう?」彼は続ける。
「出口が近づいて明るくなったら途端に元気になった。可愛いなあと思ったんだよ」
そうだった。
「出口近くで、手を差し出したら簡単につないでくれたよ、安心したんだな。でももう僕のものだって思ったよ。この手に握らせてやるって。僕の下で淫らに腰を振らせてやるって」
優しい青年なんかじゃなかった。初めから周到に狙われていた。
「そうだよ、でも、もう君は逆らうことも出来ない。引き返すことはできない。そうだろう?」
彼は彼女を抱きしめ、キスをする。胸は揉みしだかれ、スカートにも手を入れてくる。
「まだショーツつけているんだ。次からはつけてきてはだめだよ。わかるね?」
「君はそういう女になるんだ。なったんだよ」
周りはまだ明るい。
「見られるかもしれないね」彼は笑い、「でも、君はぞくぞくするだろう?」
彼女の胸はすでにむき出しされ、外灯の明かりに白く映えている。人がそっと通り過ぎ、いくつもの視線が突き刺さる。
彼女はまた深く豊かに濡れていく。
彼女は背徳に堕ちた。

清純、そして正義や真面目さにこそ悪は惹かれ、そして付け込む。
そして一切を撥ねつけるような純粋さ、意志の強さに悪はほくそ笑む。
誰にも負けないような優しさ、純粋さはもう悪を呼び寄せずにはおかないものなのだ。       
果てのない波のように寄せて、少しずつ内面をむしばみ、あとはゲームのようにじっくり楽しむ。悪は一色のみだ。少しでも沁み入られ、魅入られたら逃れる術はない。逃れたようでもその沁みは消えるわけではなく眠りにつくだけだ。
そして平和な日常に悪は保護色をまとって、そこここに転がっている。
人は神でも悪魔でもない。
誰も純白ではなく漆黒でもない。誰にもわが身にも沁みは憑りつく。人の外に、人の中に人知れず置かれている。

「優雅な獲物」(ポール・ボールズ著)には平和な日常、あるいは凄絶な戦争すら凌駕する人外の世界が描かれる。
言語学の教授が騙され、売られ、ただ見世物として調教されてしまうのだ。舌を奪われ言葉を失い、教授は命じられるままに動くモノとなる。その後、教授は保護され、救出される。けれど教授はすでに言葉をなくし、すなわち人間を奪われていた。

人が人であるように、また人が人でない人外もまたあるのだ。この世の中には。
彼女の人外への旅は始まったばかりだ。(了)

「人外は微睡に潜む」(前編)はこちらです。
次回からはまた通常な?穏やかな日々に戻ります。
面倒な「自己表出」は守られるか?
連続して嗜好品や自室の公開など、いかに過去の昭和な自己表出といえどもなかなか恥ずかしいものがあるけど、これも今流行りの自己承認欲求のひとつなのだろうか…と考えていると、いつだったか雑誌の低迷についての鹿島茂(仏文学者)の「自己表出・指示表出」論を思い出した。
鹿島茂によればオピニオン雑誌・ノンフィクション衰退の原因ははっきりしていて、インターネットの普及によるものとし、それはいかなるプロセスによるのかを吉本隆明を引用して説明していたのだ。
それによれば、まず言語表現とは「自己表出」と「指示表出」に分けられ、自己表出とは人が自分の感情や心の動き、あるいは凝縮した思想や志向を表現しようとするもので、その究極が広い意味での誌的・文学的表現である。
対するに指示表出とは情報およびそれに伴うコメント、意見の類を相手に伝えるものである。
必ずしも明確に分けられるものではなく、方向性により分けられるほどの意味ということらしい。
とりわけ、危機に追い込まれているのは「指示表出」系のメディアで、言語の指示表出的機能は、今や完全にインターネットに代行され、いずれその津波はその他の活字メディア全般に及ぶに違いないという。
さらに「自己表出」的機能についてはかろうじて残るというのだが、それは他者が表出した「自己」を拾い上げ、それを我がことのように感じ、自己のうちに吸収するという、忍耐力と集中力を必要とする心的作業にはインターネットは向いていないと思うからだ。
詩集の大きな余白は「自己表出」の象徴なのである…と。

tyuya.jpg

まあ、ネットはネットで忍耐力も集中力も効率よくして自己表出もやってのけそうで、やっぱり雑誌は厳しいかもしれない。
いずれにしても、自己表出系メディアが残るにしても、それは現代詩がおかれている状況に等しいと言います。
つまり、それでは食べていけないということである。買ってまで読んでくれないのだ。
なるほどなあ。純文学誌なども何千部ということらしいからなあ。
高村光太郎も萩原朔太郎、中原中也、立原道造、北原白秋、金子みすゞなど名を残す詩人は多いけど、おおよそ、お金には縁がなさそうだし。今なら、なおのこと厳しそうな気がする。
まあ、それはともかく。
自己表出、この機会にあれもやり切っておこうということで、次回のブログは一部ご希望もあった小説「人外は微睡に潜む(後編)」となる予定です。
一部にやや過激な表現もありますので、前篇を読んで不快と思われた方はすっとばしてください。
ラジカセ人気はいわば嗜みのある自己表出
音楽をデータで聴く時代になって久しい。CDの売上げは右肩下がりの一方で、2015年にはApple Musicなどの音楽を定額ストリーミングで聴き放題になるサービスが開始した。音楽の脱・モノ化が進む一方で、近年、カセットテープの人気が高まっているという。支持しているのはカセットテープに触れたことのない20代の音楽好きの若者達。レコードショップでの企画展も開催され、2015年夏にはカセットテープ専門店もオープンしたほどだ。時代と逆行するようなこの人気、一体何が魅力なのだろうか。(NIKKEI STAYLE)

これも昭和的なものの復活、人気の一環なのだろうか。
たしかに昔はラジカセでラジオ番組や流れる曲をカセットに熱心に録音した。AMなどはノイズが混じるし、完璧に録音を成し遂げたと思ったら、飛行機の騒音で台無しなることもしばしば。なにしろ、家は航空自衛隊岐阜基地の近くだったのだ。
録音が終わればカセットのインデックスシートに曲名や番組名を書き、雑誌の付録のインデックスカードや切り取ったアイドルなどでカセットケースを作ったりした。
ある意味、ものすごい個性・趣味性の露出であり、気恥ずかしいのだが、まあ、自分の部屋に仕舞っておいて、ときどき取り出して聞くものだからね。
そういう面倒くさい行程を経ること、ささやかであってもそういう自己の肯定・否定の煩悶を繰り返しながら、ようやく自己を再認識するところもあったかもしれないなあ。いわば、嗜みのある自己表出なのだ!?
いまの便利すぎる時代は時間や空間を大いに拡大したけど、その分、そうした内省する時間が奪われているのかもしれない。
考えるまでもなく教えてくれたり、考える間もなく、呟いたり…。
このブログもけっこう時事の話題も多いのだけど、必ずしもタイムリーでないのは、そこそこ寝かしておくことも多いからなあ。
でもやっぱり、人ってかっこよくても悪くても面倒くさいものだと思う。
というわけで、これも公開してしまおう。
脱・モノ化なんてなかった時代は過去の恥ずかしい自分をこんなに強く再認識させてくれます!?

P4220078.jpg


当時としては高性能、高機能でスタイリッシュなデザインだったソニーのラジカセ。

saitouy.jpg

斉藤由貴のEPレコード。

平気 涙の乾いた跡には 夢への扉があるの 悩んでちゃいけない
そうよ 優しく友だち迎えるように微笑うわ きっと 約束よ

不意に 悲しみはやってくるけど 仲良くなって見せるわ だって 約束よ

ci.jpg

アイドルの数々。録音内容は様々だけど、ジャケットは雑誌付録のアイドルなどのインデックスカードや切り抜きを利用した。
音の収録、雑誌の購入、写真の選択・切り抜き、曲名の書入れ…すべて手作業が染みついている。
さして、変わらないともいえるけど、手間暇がかかったなあ。
ちなみに上左から岡田奈々、榊原郁恵、浅田美代子、南沙織、山口百恵
下左から大場久美子、石野真子、みゆき、桜田淳子、キャンディーズ

うーむ、これって嗜み、あるんだろうか?
ね、面倒くさいでしょう!?

テーマ:懐かしい歌謡曲 - ジャンル:音楽

ツイッギーを探せ。1980年のオタクを探せ
NHKの朝ドラ「ひよっこ」はほんとうに戦後高度成長期の明るい未来を単純に?信じた当時の雰囲気を見事に描きますね。
もちろん、なんにでも負の側面はあるけれど。
まあ、それはさておき(増田明美調で)。

「ツイッギーを探せ」とは昭和的なタイトルがうまいですね。
これはもちろん仏映画「アイドルを探せ」からで、シルビー・バルタンの主題歌も大ヒットになった。
シルビー・バルタンは「アイドルという職業はない」と言ったというけど、まさにこの映画で、この主題歌で日本にアイドルという言葉を根付かせたばかりでなく、「アイドルは見つけ、探し出し、育てる」という今のAKB48に至る日本独自のアイドル文化を「アイドルを探せ」という言葉で意味づけたのだ。
僕もこのアルバムや「あなたのとりこ」などを買って、名古屋市公会堂のコンサートにも行き、その後も続々とアイドルに嵌ることになった。

sv.jpg

ただ、あの頃は歌謡曲はもちろん、洋楽も溢れた時代で、映画も米映画だけでなフランス、イタリア、イギリス、ドイツなどくヨーロッパ系の映画もずいぶん公開されていた。
ちょうど今、シルビー・バルタンと並んで日本でも人気のあったジリオラ・チンウエッティ来日中だけど、サンレモ音楽祭の優勝曲だったのが「夢見る想い」で、「雨」なども大ヒットした。日本でも多くの歌謡祭があったけど、サンレモ音楽祭と同様に今は昔。
ポップス、ロック、シャンソン、カンツォーネ、フォーク、演歌、音頭まで幅広く多くの音楽が楽しまれた時代。
今はどうだろう。細分化することによって多様になっている感じかなあ。
「あまちゃん」でも「春子の部屋」など昭和のアイドルに浸かった部屋が見事に再現されていたけど、「ひよっこ」のみね子の部屋や愛子さんの部屋もあの頃の昭和な感じがよく出ているような気がします。

さあ、1980年ころのアニメ・アイドル・映画オタク青年の部屋がこれですよ。

roomi.jpg

だんだん、恥ずかしげもなくなってきたな。
ユニチカガールだった紺野美沙子、薬師丸ひろ子は「野性の証明」に「写真集」のポスター。
「スター・ウォーズ」もありますね。いずれもB全。下にあるのはボンドガールのパネルかな?

room3.jpg

ステレオは兄貴が買ったのは家具調時代ののコロムビアで、僕の時代はスタイリッシュなパイオニアだった。

テーマ:懐かしい歌謡曲 - ジャンル:音楽

AIは人に寄り添うか
「ターミネーター」も「2001年宇宙の旅」「禁断の惑星」も人工知能の人智を超えた怖さを描くものでもあったけど、囲碁や将棋などの無駄も排除せず、あらゆる可能性を潰していき、最終的に勝利することを目指し、そのうえでそのための最大の効率化を図っていくようなものだとしたら、やはり恐怖は否めない。
人は基本的に包丁を野菜や肉を切る食事のためのものとするのであり、自動車はより早くより遠くまで多くを乗せて行きつくものであり、人の生活を豊かにするものだけど、あらゆる可能性を探れば簡単に凶器にも変わる。
秀吉は「刀狩り」で農民から奪ったのはまさに「刀」で、農作業に使う鉈などの刃物類を取り上げることはなく、猟師鉄砲ですら取りあげなかった。人を殺傷するものではないからだ。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか」という問いかけに対して、人は明快な答えが見つけ出せないけど、「ならぬものならぬ」といって、「AI」は果たして理解するのだろうか。

n_616dl21330ps.jpg

まあ、そんなものを理解しては「AI」の意味もないのだろうけれど。
本が読んでも読まなくても、本のある風景が多様で豊かであるように、人は役に立とうが立つまいが、そんなことは結局誰にもわからないし、人のある風景はただあるがままで多様でも豊かなのだ。
人が自然に抗いながらも寄り添って生きてきたように、「AI」は人にどのように寄り添っていくのだろうか。
「スタートレック」のスポックや「宇宙家族ロビンソン」のロボット「フライデー」などの論理のみの思考や会話とのズレが、ふとユーモアを生み、怪訝な表情を浮かべたり、「それは計算できません」と繰り返したりするときがあるけど、あれってけっこう、人との関わりの中で重要なところではないかなあ。
ユーモアを解するかどうか。
福田恆存はユーモアは「その人の教養を物語り、真面目は腐ったり、堕落しやすいが、冗談(演技)は腐らない」と言ったけど、「AI」はどう解するのだろうか。