理系・文系を重ねて見る光景は
強毒「ヒアリ」の侵入
環境省は13日、強い毒を持つ外来種のアリ、「ヒアリ」を国内で初確認したと発表した。中国から貨物船で運ばれたコンテナの内部にいるのを、兵庫県尼崎市で見つけ、消毒して死滅させた。環境省は「現時点ではヒアリが定着し繁殖している可能性は低い」としているが、念のため、周辺に侵入していないか緊急調査を始めた。 ヒアリは赤茶色で体長2・5~6ミリ。人が刺されるとやけどのような激痛が走る。毒針で何度も刺すほど攻撃性が高く、かゆみや動悸(どうき)などが引き起こされ、アナフィラキシーショックによる死亡例もあるという。(朝日新聞デジタル)

というニュースに始まったヒアリ騒動はその後も続々と見つかり、港だけではなく内陸部、ついには女王蜂まで見つかり、すでに定着も強く疑われる状況となった。
また大阪・南港に到着したコンテナ内ではやはり毒性を持つ新たな「アカカミアリ」が発見されている。
もう水際ではないのだ。水際での侵入阻止はまさに島国ならではだけど、もう島国とはいえ、このグローバル世界では侵入を防ぐのは困難ですね。
最初の発見から2か月余りで相次いで見つかるのは、その後の侵入ばかりと考えるのは不自然で、最初の発見で大きく報道、検査体制が徹底されたゆえでもあるにちがいなく、とすれば最初の発見以前からの侵入がすでにあったと考えるのが普通でしょう。
すでに蟻の一穴は穿たれており、それまでは対策も取られていなかったわけだから、定着している可能性は高い。

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毒性はないものの、生態系を破壊するという特定外来生物「アルゼンチンアリ」も侵入以来、生息域を着実に広げているらしいし。岐阜県では地元各務原市で最初に発見され、港町でもない内陸の町なのにとも思ったけど、航空機や自動車などの工業が盛んな街だから輸入されたコンテナからということも、あるいは航空自衛隊岐阜基地があるから、そこからという可能性もあるかもしれない。
グローバル化は近代以前には大陸ごとに分断されていたものが世界に広がり、弱肉強食による生存競争が地球規模の熾烈なものにしてしまった。
大陸の激烈な生存競争下にあったものにすれば、平和な島国の固有種など赤子の手をひねるも同然かどうかは知らないけど、新たな生存競争が始まり、僕たちも未知の危険にもさらされる。
ヒトという種がもたらしたグローバル化はその中で新しい可能性も見出すけど、生存競争の激化によって多くの固有種が失われ、多様性を脅かしますね。
そして、それは文化や経済にあってもそうで、熾烈な経済競争にあっては固有の経済原理、あるいは文化なども簡単に奪われ、独自の文化として主張しても、いずれ非関税障壁などと言われ、実際、文化の基盤たる言語ですら、多くは失われつつありますからね。
世界の標準化・フラット化はたしかに一方で公平化をもたらし、その強者の美名に逆らうことはなかなかできないけど、かたや自然のなかで固有種が危機に瀕するように文化なども淘汰されていく。
グローバル化といっても島国として成り立つ幸運を?、古来より守られてきた自然や叡智を、最大限活用するというあり方もあるのだと思うのだがなあ。
まあ、これはまた別のお話。
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文学は読み込んでも読み込まなくても、本のある風景
本にも速読できるものや繰り返し読み込む様なもの、あるいは積ん読まで様々にあるけど、まあ、どれも魅力的だったりします。
僕の場合、結局、積ん読になってしまった本には読みにくかったり、装丁があまりにきれいで買ってしまったもの、題名に思わず惹かれてしまったものなどがあるけど、そんな本は丁寧に書棚にしまい込まれ、時々眺めたり、手に取ってページを開くだけでも、やや口惜しくもありながら幸せな気持ちにもなったりする!?
作者の意図する読み方ではないけれど、まあ、読んでいてもそれぞれだし、本や読書が人を豊かに幸せにするものであるなら、これはこれで本懐ともいうべきかもしれない。
作家の奥泉光によれば、ていねいに読んではじめてその魅力を、面白さが拓けてくるといいますね。
ダンテの「神曲」も日本語で読むとさほど面白くなく、英訳で読んでみたら俄然面白くなり、つまり、それは英語で読んだから面白いのではなく、英語だと日本語のように早く読めないから面白かったのだと。
詩も俳句も暗誦するまでに心に刻み付けて、はじめて浮かび上がるものがそこにはあるのだろうと。

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少し違うけど、やはりアニメ映画「パプリカ」などの今敏監督は「僕は、誰にでも理解できるものばかり作ることは、文化の崩壊を招くと信じているんです。 今は、テレビを見ていても、どこで笑えばいいか字幕が教えてくれる。自分の頭で考えない人が日々製造されているんです。だから、僕の作品で、自分の頭で考えたほうが楽しいということも 感じてもらえたらうれしいですね」と。
この言葉は池田晶子のテレビ批評「人は考えるためには、一度は必ず映像を離れる必要がある。一方的に映像を受け取る習慣は考えるという人間を人間たらしめている根幹の部分を、気づかず摩滅させるのである」を連想させますね。
1980年代頃まではアニメも少なくどんな作品でも貪欲に見たときがあったけど、1年も見続けてようやく最後に面白くなるというものあれば、最後までなんだこれはというものもあったけど、これはこれで、まあ、悪くもない。
まあどんな作品もあきらめず、投げ出さず、見続けることも肝要かと思うのは、なにかしら考えさせますからね。
最近は1話だけで決めつけたり、2時間ドラマも耐えられない人も多いらしいのはすこしびっくり。
僕は今でもたいていのドラマを見ていたりする(さすがにアニメは減った)。
時間も惜しいということで、今は本も効率的に読むというレバレッジ・リーディングというのがあるらしいけど、ビジネス書ならともかく、いずれ文学作品もレバレッジ・リーディングされてしまうかもしれない。
変にレバレッジ・リーディングされてしまうくらいなら、積ん読でも装丁・題名を眺め、想うほうがまし…とはさすがに負け惜しみ。
そんな装丁や題名で買ってしまったのが「夕暮れまで」「雷鳴の聞こえる午後」「アカシア騎士団」。
「夕暮れまで」「雷鳴の聞こえる午後」は箱入りの上、パラフィンカバーだから、もうしまっておいてねという感じ!?
もう一つは季刊誌「SUB」から。続々と出てくる固有名詞がさっぱりわからない。
古書で買ったけれど、ところどころに線引きがされていてどんな人が読んだんだろうなあって、むしろ、そちらに興味が向いた。

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まさかの「悦ちゃん」 獅子文六
しかし、さすがはNHK。今度の土曜ドラマは「悦ちゃん」ですよ。
原作は獅子文六。わかるだろうか、獅子文六ですよ。
戦後のベストセラー作家で映画やテレビドラマでもずいぶん映像化されたけど、まさか今さらドラマ化とは。
まあ、読みはしなかったけど、ドラマ化されたりすればよく見ていたりした。
源氏鶏太などもそうですね。
石坂洋次郎もそうだけど、こちらは青春小説だったりしたから読んだりもした。
ところで、もう夏休みだけど、各出版社の夏の図書もずいぶん変わってしまったなあ。
今では古典も(せいぜい夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、川端康成、谷崎潤一郎、樋口一葉、三島由紀夫くらいまで)、僕たちの学生時代のあれほどのベストセラー作家の北杜夫、遠藤周作、新田次郎、筒井康隆、小松左京、星新一、 安部公房などさえ多くの作品が消え、吉行淳之介、開高健、山口瞳も抜け落ち、今では手に入りにくくなっている作家・作品もあるほどなのだ。
獅子文六はなおさらのはずで、ドラマ化にはびっくりしたのだ。
もう記憶だけで確認してないけど、北杜夫のエッセーで北を小説家と知って「獅子文六のような文豪になってください」と言われたようなエピソードがあったけど(北さんはきょとんとした)、それほどに大衆には支持された証でもあるのだろう。
となれば、いわゆる流行作家であり、文豪とは取り違えてはいるようにも思うけど、まあ、獅子文六のペンネームも文豪(文五)の上を行くというものらしいから、案外間違いではないのかもしれない。

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僕はテレビドラマ「胡椒息子」(獅子文六原作・中村光輝主演)を熱心に見た覚えがあるけど、もうすっかり忘れてしまった。
「悦ちゃん」はやっぱりNHK少年ドラマシリーズで見た。
NHK少年ドラマシリーズはSFやミステリー、児童文学など幅広く意外な作品までさまざまに取り揃えていて面白かったけど、今どき「悦ちゃん」というセンス、さすがというべきなのかもしれない。
NHK土曜ドラマ枠、いったい何を持ってくるのか侮れません。
土曜ドラマ枠ではないけど『ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語~』で主演した多部未華子が『第8回 コンフィデンスアワード・ドラマ賞』で主演女優賞を受賞したとあったけど、やはりこういうドラマ、NHKはいいんだよなあ。

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格言に学ぶ 国家・社会
数々のピンチを逃れてきた稲田防衛相もPKO(国連平和維持活動)の日報、隠蔽を図ったという疑惑はさすがにもう難しいだろうなあ。そのたびに緊張感を持って職務に邁進すると言った口から、緩さ満開な不祥事が続き、ついには隠蔽が疑われるとは。
まあ、僕なんかも想像がつかないけど、日々、生死をかけている実力組織の最高責任者がどうあるべきかということがわかっていなかったのだろう。
安倍首相も一度、失敗してよくわかっているはずなのに、やはり失敗を人間は繰り返すのだなあ。
村上誠一郎元行政担当相は安倍晋三首相の人事について、「お友達か、稲田(朋美防衛相)さんとか高市(早苗総務相)さんのように同じ思想を持っているか、イエスマンかの3パターンしかない」と批判したけど、長く続くと少しずつ、そういう傾向になっていき、気づけば、周りはそんな人たちと忖度ばかりになっていたというような。
森友問題の籠池さんが典型だけどそういう人たちのほうがなすべきことの足を引っ張り、政策の実現を遠ざけ、むしろ、そこから離れているような人たち(岸田外相や谷垣元幹事長、高村自民党副総裁など)が実は誠実に支えてくれていたりする(まあ、ほんとうに魑魅魍魎みたいなところもあるかもしれないけど)。
まさに諺にある通り、悪友は汝を地獄に誘い、無知な友ほど危険なものはない。

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まあ、失敗や歴史に学ぶことの大切さは誰でも思うけど、それでも人は繰り返すのは、かの哲人ソクラテスの言う通り、「どの時代も旧い誤りを正して、新しい誤りを作っている」のか。
また、ゴルドンは「政府の中で暴民の政府は最も残忍、軍人の政府は最も冗費多く、法律家の政府は最も煩累である」と言ったけど、それでもいちばんましなような法律家の政府も煩累だけでなく「腐敗した社会には数多の法律あり」(ジョンソン)、「法律多ければ犯す者多し」(英俚諺)というからなあ。
一つの嘘を隠すために二十の嘘が必要だというのもありますね(ホープ)。

さあ、今日明日と国会の閉会中審査が始まり、丁寧で嘘のない説明が求められるけど、はたして、「真実は万事を平易にす。真実は安静な心を持つ」(シェークスピア)、「誠実は最良の方便なり」(ワシントン)となりますか。
まあ、どんな形になっても粒粒辛苦。
ということで、最後はホーレスの言葉で。
「愚かな人たちは一つの極端から解放されると、その反対のいっそう悪質な極端に走ろうとする」
全ての人間の業のような気もする。
『半分以上、青い。』岐阜県
女優の永野芽郁(17)が20日、2018年春から放送されるNHK連続テレビ小説第98作『半分、青い。』(月~土 前8:00 総合ほか)のヒロイン・楡野鈴愛(にれの・すずめ)役に決定した。ヒロイン役が発表されると、会見場からは「オー!」というどよめきが起こったが、一番目を丸くしていたのは永野本人だった。(中略)舞台となる岐阜県の印象についても「すごくのどかな街のイメージがあって、木が多くてマイナスイオンが多そうみたいな…あっ、決して悪いイメージではないですよ。これからもっと勉強します」と茶目っ気たっぷりに打ち明けた。(オリコンニュース)

そうか。やはり今でも岐阜は木、山のイメージであったか。
「岐阜県民の歌」でもすぐ出てくるフレーズは♪岐阜は木の国山の国♪だから、都会の女の子であれば、まあそうでしょう。
今でもというのは画像の左が1952年の児童年鑑、右が今年の6月22日の中日新聞の広報記事で、おお、岐阜は今も山の中。
木の国、そして水の国なのだ。

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でもまあ、日本そのものが木の国山の国、木の文化だからね。
古来からの森を守り継いで土壌も豊かに、多様な生物も慈しみ、水を貯え浄化し、マイナスイオンはよくわからんけど、二酸化炭素も吸収してくれるからね。
また日本が誇る荘厳・華麗な城や寺社仏閣から我ら庶民の家屋も多くは木造なのだ。
中国や韓国もやはり木造りだけど、楠や松だったらしく、日本は檜だった。
この木の違いは道具の発展にも変化をもたらし、楠、松は材が固く、中国や韓国ではのこぎりやカンナも押すものとなり、材の柔らかい日本は引くものとなった。
押しの文化と引きの文化とは牽強付会に過ぎるだろうか。
最近は引いてもダメなら押してみようって感じもあるけれど、まあ、基本は引きだからなあ。
日本も少子化問題など経済も引きの時代に向かうけど、引きの文化だから、それにふさわしい対応も自ずと持ち合わせているのかもしれない。
国土は青い(若い)のだし。
日本のしなやかな伝統美の根幹は木であり、檜だったのだよ、ね、芽郁ちゃん。
ちなみに岐阜の森林面積は『半分、青い。』どころか約80%で全国第2位。
「警視庁いきもの係 」千載具眼を持って見よ
フジ「警視庁いきもの係 」って、なかなか上手いタイトルだなと思っていたら、オープニングのタイトルバックはさらに見事だった。
超絶技巧と言われた伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」 を使っているのだ。
昨今の伊藤若冲ブームでテレビでもあまた特集されていて、どうも見覚えのある絵だなあとと思ったら、まさしく若冲。
やはり伊藤若冲の超絶技巧、精神性、奇想性はオタク的シンパシーがあるのだな。
宇多田ヒカルの「サクラドロップス」のビデオクリップ(キャシャーンの紀里谷和明監督)も若冲へのオマージュでもあったし、「警視庁いきもの係 」もてっきりアイドル橋本環奈のためのドラマかと思いきや、若冲を持ってきたのは実はアイドルオタクの感性に向けられた挑戦、あるいは何かしらの決意なのかもしれないぞ。
まあ、若冲もいきものはいっぱい描いているし、犯罪捜査に意外な視点から真相を解明するアイドルいきもの係巡査(橋本環奈)は若冲の「千載具眼の徒を俟つ」というところの、千載具眼の徒をイメージしたのかもしれぬ。

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その超絶技巧とも言われる若冲だけど「今の画というものは、みな手本をもとに描くばかりで、いまだ物を描けたのを見たことがない、そして技術によって売れることばかりを求めていて、技術以上に進むことが出来ない」と述べていたというからね。
技術以上に進むとは何かということになるのだけど、いよいよフジも一見売れ線のアイドル路線と見せかけて、実はなにかしら技術以上に進もうとする奥深い意図を秘めたオタクが躍動しているのかもしれないなあ。
僕はオタクの上りは「だんな芸」ではないかとも思うけど、すなわち、うんちくは語るけど芸は極めない、玄人はだしになっても、玄人にはならない、いつまでもなんでも面白がる精神…、というところから、このドラマは始まっているのかもしれない。
「警視庁いきもの係 」ってアイドルドラマには違いないけど、さまざまな秘められた「だんな芸」も楽しめるドラマなのかもしれない。
「侮るな、千載具眼を持って見よ」なんてね。
そして、テレビマンはプロだから「だんな芸」も越えて、技術も越えて…。

テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

「ひよっこ」のビートルズがやってくる
NHK朝ドラ「ひよっこ」のビートルズの宗男さんのエピソードは泣かせますが、戦争下の極限での状況の不意の出会いであれば絶句するのみで、あんな状況もあり得るのではないかとも思えます。それはともかく。
それにしても当時(1966年)のビートルズファンが300万というのほんとうだろうか。シングルで一番売れたのは「レット・イット・ビー」だと思うけど、発売されたのは1970年でそれでも累計138万枚というからなあ。
たしかにちょっとかっこつけた中高年は誰もビートルズファン(当時は不良呼ばわりされた)のような顔をするけど、実際は渋谷陽一の言うようにほんとうは当時クラスに1人くらいしかいなかったはずなのに、十数年経ったらみんな「俺たちビートルズ世代」とは…、お前ら本当は「橋幸夫世代だろう」なんてこともありそうな数字のような気がする。
事実、生真面目な僕の兄は橋幸夫ファンで、対抗上?、僕は舟木一夫ということなってしまった。
田舎の孤高なるビートルズファン宗男というのがほんとうのところじゃないかなあ。

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まあ、僕はビートルズ世代に少し遅れるけど、映画館でビートルズ映画大会も何回も組んだりしたので…。
僕は大学卒業後映画興行会社に就職していて、最後の1年は名画座というか2番館にいた。
そこで定番のようにあったのが「ビートルズ大会」だった。
「レット・イット・ビー」「HELP!」「ヤア・ヤア・ヤア」の3本立てが多く、ときには「マジカル・ミステリー・ツアー」というのもあった。
2番館もなかなか人は入らず、そのなかでビートルズものは安定的に見込める貴重な定番映画だったのだ。
どこの名画座でもよく上映されていたのだろう、あるいはフィルムが少なかったのか、上映するフィルムはけっこうぼろぼろでよく切れたりした。今では信じられないようなことだけど、フィルムが切れてスクリーンに何も映ってないということが昔はあったのだ。
繋ぐには切れた部分をきれいにカットしてテープで貼るのだけど、ビートルズの「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などはよく繰り返し上映されていたからほんとうにぼろぼろで、テープで何箇所も貼りなおされていた。
上映してみると配給会社から来る資料の本来の上映時間より数分近く短くなっているほど、切れまくっていたのもあった。
映像が飛ぶということはもちろん、音も飛ぶのだ。ましてや音楽映画なのに。
それでもクレームはつくことはなかった。
映像も音も悪くても見られるだけで、聴くことが出来るだけで幸せだった。
まさに宗男の境地のようにも思うけど、ビートルズが偉大なのか、音楽そのものが偉大なのか、その当時の日本人が偉大なのか。
それが今ではずいぶん些細なことでも目くじらを立てるようになってしまったけど、どうなのかなあ。

テーマ:THE BEATLES - ジャンル:音楽

キトラ天文図の現場100回
もう七夕も終わってしまったけれど、部屋の整理をしているとこんな星座表が出てきた。
最近はゆっくり空を見上げることも少なくなったけど、やっぱり、宇宙はロマンに満ちているなあ。
夜の空にはまだ無限の星があり、有限の星が輝いている。
ロマンを誘うといえば、奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末~8世紀初頭)の石室天井に描かれていた天文図もそうですね。
以前に文化庁などは星の位置関係を調べた結果、紀元前1世紀半ばと、紀元後4世紀に中国で観測された星が共に描かれている可能性があると発表していて、キトラ天文図の星の配置は独特で、原図に該当する星図は見当たらないという。
星の位置は年々変化しており、発表した中村元教授は天文図に描かれた20個以上の星宿(せいしゅく)(星座)の位置から年代を推測し、その結果、紀元前1世紀半ばごろの観測と判断した。紀元前の星の位置を記録したとされる古代中国の「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したという。

驚くべき古代のロマン。
僕は哲学や宗教などの一部はもしかしたら古代のほうがレベルが高かったのではないかと思っていたのだけど、天文学もそうだったのかもしれないなあ。
今より圧倒的に夜は長く暗く、親しむものであって、星はそれこそ美しく降るように見えたに違いなく、誰もがロマンや科学、興味の対象だったのだろう。すそ野が広ければ学術的な知見も高いに違いない。
キトラ天文図の作成には惑星研究、あるいはそのための観測機械など現代にも匹敵するような知識、科学技術基盤を要するはずで、一人の天才ではなく発見・発明を生むべく社会全体の関心・成熟があると思う。

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昔の天文学者ってピタゴラス、ケプラーのように哲学や数学はむろん、音楽、あるいは日本の安倍晴明の陰陽道、「天地明察」で知られる渋川春海の囲碁、日本全国を測量し、精密な日本地図を完成させた伊能忠敬など、幅広い教養の上に立ち、現代の科学に及ばぬ部分もカバーし、凌駕するところもあったのではないだろうか。
なぜ石室天井に天文図を描いたのか。死者の帰る場所なのか。死者が見るのか、生者も見るのか。
案外、星座盤のように天文図を背景にこんな星座表を回していたりしてね。
そして石室では宇宙から届く雑音の省かれた天上の音楽が聞こえたりして。
一度、石室に一人入って、一日中寝転んでいたいものだなあとも思うけど、やっぱりちょっと怖いか。
刑事の現場100回じゃないけど、そういう研究のあり方もありはしないだろうか。
人類の起源は30万年前
【AFP=時事】(更新)現生人類ホモ・サピエンスは、30万年前にアフリカに生息し、現代の人々とそう変わらない顔つきをしていたとする論文が7日、発表された。人類の起源が定説より10万年早かったことを示す研究結果だ。
ホモ・サピエンスは約20万年前にアフリカ東部に現れたというのが20年来の通説だったが、英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された2件の論文によれば、これを覆す画期的な化石がモロッコで見つかった。
この発見により人類の進化の系統図が書き換えられ、既に絶滅したホモ属の一部が人類の祖先としての候補から除外される可能性もある。

いや、人類の誕生はどんどん遡るなあ。
現生人類の定義や過去の発見が覆されたり、中高生時代(ピテカントロプス、北京原人など)の知識で留まっている僕にはもうさっぱりわからない。

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現世人類はともかく、今では霊長類の進化は8500万年くらい前まで遡れるらしいから、さらに研究が進めばマンガ「原始少年リュウ」(石森章太郎)のようにティラノサウルスと旧人類が共存していてもとも思うけど、霊長類の祖先ならともかく旧人類でもさすがに無理。
もっとも「原始少年リュウ」ではマンモス狩りもしていて、このあたりは地球史に沿うもので、そういえばギャラクシーのCMでもタイムスリップしてマンモスの時代まで漂着するといのがあるけど、ああいう出会いはあるかもしれない。
マンモスの絶滅については気候変動説のほか、人間の狩猟による絶滅説もあるのだ。
まあ、いずれも地球史は有史以後でも覆ることは多くあり、有史以前であればまだまだ藪の中。
「原始少年リュウ」でティラノサウルスが時代の生き残りとして登場したように、マンモスだって大いに怪しいけど現代の目撃情報がありますからね。
いかん、だんだんオカルトになってきた。
まあ、この画像の児童年鑑(年長の従兄妹からの貰ったもので、宝物のように熟読した)などは戦後間もなくということもあって、進取の精神に富みすぎたか、最新情報を取り入れすぎてピルトダウン人の発見(のちに捏造と判明)が載っていたり、火星の記述には緑生が認められたみたいなことも書いてあって、まるで昔の少年漫画誌の怪しげな特集記事みたいなところもあるけど、あちらこちらと大いなる好奇心はもたらしてくれた。
「第7大陸ジーランディア」水没の謎 
オーストラリアの東側の海底には、地球で7番目の大陸「ジーランディア」が沈んでいる。その誕生や水没の経緯は長く不明だったが、地球深部探査船「ちきゅう」による調査が1月に正式決定。2020年に海底を掘削し謎の解明に挑む。
ジーランディアは1990年代の観測衛星による海底地形調査で存在が確認された。面積はオーストラリア大陸の約6割に当たる約490万平方キロに及び、世界最大の島グリーンランドの2倍を超える広大な水没大陸だ。海面より上にあるのは面積の約6%だけで、大半をニュージーランドが占める。海底に沈んではいるが大陸だ。地球の表面を覆っている地殻には、厚さが約6キロの海洋性の地殻と、30~40キロと厚い大陸性の地殻がある。ジーランディアの地殻は約20キロで、大陸性と見なされる。大陸性にしか含まれない花崗(かこう)岩や変成岩が見つかっていることも根拠だ。3億年前の地球では超大陸「パンゲア」が唯一の陸地だった。2億年前に分裂が始まり、現在の6大陸ができた。ジーランディアはオーストラリアの東側部分だったが、約8千万年前に分裂して誕生。約2千万年前にほぼ全域が水没したことが、これまでの研究で分かっている。(産経新聞 5/28)

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ジーランディア水没の謎の解明も楽しみですが、そもそも超大陸「パンゲア」が唯一の陸地で、分裂して現在の6大陸になったのはほんとうなのかという謎もあるのだけど、証明するとされるのがプレートテクトニクス理論。
といっても僕のような素人にはなかなかわからず、ずっと疑いは晴れなかったのだが、ストンと腑に落ちたのが、まったく畑ちがいの淡水魚の研究。
淡水魚は各大陸に分布するが、海を渡ることができないのに、どうしてこれほど 広がったのか謎だったのだが、約1万2千種類に及ぶ淡水魚のうち3分の2を占めるコイやナマズなどの仲間は、 約2億5千万年前に唯一存在した超大陸パンゲアで誕生した淡水魚が祖先だったとする研究成果を東京大大気海洋研究所と千葉県立中央博物館などのチームが 発表したのだ。
おおっ、パンゲア。なるほど、それならよく分かりますね。
いちばん合理的な推論から求めることも可能だったのだ。
思いつかなかったなあ、パンゲアとは。
タネを明かせば簡単でもラムネのビー玉みたいに形そのものを見てしまうと、形に囚われてなかなか謎に辿りつかなかったりしますね。
ジーランディア水没の謎も意外なところにあるのかもしれないぞ。
また、再噴火の始まった西ノ島は大陸性の安山岩を噴出しているらしいから、もしかしたら僕たちはパンげア以来の新たな大陸の誕生を目撃しているのかも。しかし新大陸丸ごと日本ですよ。
武力の行使なしで新たの領土の獲得って奇跡ですからね。
まあ、そんなことになればやはり水没するところ、海流の変化、気候の大変動など想像もつきませんがおそらく人類史を越えたはるか未来の物語。

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

九州北部の記録的大雨
梅雨末期は集中豪雨に見舞われることは日本の常とはいえ、ここ最近の豪雨は半端ではない。
福岡・大分に出された大雨特別警報は数十年に一度の大雨が目途らしいけど、もう数百年レベルというか、未曽有の豪雨になりつつあって、さらにここ最近でいえばそういうものが毎年のようにやってきて、ちょっと感覚が掴みづらくなってきている!?
地震や噴火にしろ、そして大雨や強風にしろ何が起きるかわからない未曽有の時代なのかもしれない。
まだ大雨は続いており該当の地域、また今後大雨の見込まれる地域の方は十分な注意が必要です。
幸いこちらではまだ大雨とはなっていないけど、僕の実家も木曽川、境川堤防のすぐ際だったから、子供の頃には決壊はなかったものの越水ぎりぎりは子供の頃に見たことがあり(子供は見に行ってしまうんだよなあ、でも行ってはいけません)、木曽川・境川が一体となって流れるさまは今でも忘れることはできない。
土間からはぼこぼこと水が湧いた。決壊寸前だったのだ。
以下は再掲になります。

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地震、火山と同様に海に囲まれた日本は台風、豪雨などによる河川についても災害は避けられない。
火山帯、地震帯のうえに日本列島は成り立ち、そのゆえに急峻な河川がある。
明治時代に河川工事のために来日したオランダ人技師デレーケは、世界でも特異の“勾配がきつく、流れの速い”日本の川を見て「これは川ではない、滝だ」と驚愕したというほどなのだ。
大陸が古くゆったり流れるヨーロッパの川は堤防もあまりないらしいですからね。
天変地異と常に隣り合わせ、災害とともに生きてきた日本。
その先人たちの知恵と工夫が田んぼや里山であり、長きにわたる治山治水がある。
東日本大震災はそれこそ日本では1000年単位の取り組みの必要性を改めて思い起こさせてくれるものだったけど、それは河川など自然、町づくりすべてに渡ります。
でも、それゆえ、日本が世界で稀な美しく多様な自然・資源にも恵まれているということにもなります。
禍福はあざなえる縄の如し。
それでも先人たちは諦めることなくこの荒々しくも恵みももたらす美しい自然とともに生きる工夫をたゆまず努力してきた。
いま、僕たちは先人たちの知恵を努力をきちんと今も引き継いでいるだろうか。
原発なども世界で最も厳しい基準などといっても世界でも稀なほどにあらゆる巨大な自然災害に常に向き合わざるを得ない日本であれば当然であり、要はその地に適合するかどうかなのだ。つまりは適合しないのだ。
災害、あるいは文化にグローバルスタンダードはなく、日本が永遠に向き合わねばならないのは「自然」なのだろう。
かたや多くの大陸などの国々は 自然災害よりも大陸上を図面で引いただけの国境で分かたれ、他民族との争い、その共存のほうがはるかに生きるための戦いだったのかもしれず、イスラエル、パレスチナなどは及びもつかないほどに。
日本は自然との戦い・共存により比重が高く、だからこそ、また人にも優しくなれるのかもしれない!?
こんな人たち、あんな人たちにもある素晴らしき哉、人生
都議選で自民党の大惨敗を受けて戦犯探しが始まっていて、まあ、この1ヶ月くらいでも枚挙にいとまがないくらいにいろいろあったのだけど、なかでも都議選最終日の東京・秋葉原の街頭演説で巻き起こった「安倍やめろ」コールに対し、「憎悪や誹謗中傷からは、何も生まれない!」と語気を強め、「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」と言い放ったことは、今後に憂うべき要因ともなりそうな気もします。
まあ、当然ですが「憎悪や誹謗中傷からは、何も生まれない!」ということはなくて、いいことはまず生まれないのであって、悲劇の多くはここから生まれ、でも時には希望が生まれないとも限らない。いずれにしてもすべての人間の根源に潜むものでしょう。
それを認め、だからこそ憎悪や誹謗中傷から悲劇を生まないための努力が必要なのであり、たとえどんな人たちであろうとも、また自らも「こんな人たち、あんな人たち」との自覚があれば、もう少し言い方もあったのでしょう。
現にその街頭演説の場にはあの籠池さんもいて、安倍首相も昭恵夫人も最初はずいぶん森友学園、籠池さんを買っていたのだ。
少し怪しげな正体を見せ始めると、あっという間にあっち側に追いやり、「こんな人」扱いになってしまったけど、これに習えばむしろ、口当たりのいい賛美や熱狂にこそ、憎悪や誹謗中傷の種子が潜むのだ。
フランクリンも「偽友と陰影は太陽の照らす時のみ伴う」と言っているし、実は「こんな人たち」のなかにこそ、ともに明日を築ける人がいるかもしれないということにはならないのかなあ。

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ああいう場ではついエキセントリックになってしまい、あとで反省できたりもするけど、どうもその反省も言葉だけになってしまっているみたいだからなあ。
まあ、「こんな人やあんな人」の僕が言うのもなんですけど。
画像は映画「素晴らしき哉、人生」。
「こんな人やあんな人」にもそれぞれのたった一つの素晴らしき物語がある。
科学的真理と宗教的真理
バチカンで宇宙物理学、天文学者らの国際会議が5月9日、開催されたが、ローマ法王フランシスコは12日、同会議に参加した35人の学者たちを招いた。フランシスコ法王は「真理を探究することに拘ってほしい。真理の前に不安を抱く必要性はない。科学者は真理の発見を謙虚に受け入れなければならない」と強調し、科学者を鼓舞した。バチカン放送が12日、報じた。(アゴラ)

コペルニクスがローマ・カトリック教会の天動説を否定し、地動説を主張して以来、科学的真理と宗教的真理は「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」で描かれるように密かに激しく対立したかと思えば、そうでもなかったのか。
といっても地動説を支持したガリレオは宗教裁判で有罪となって、あの有名な「それでも地球は回っている」とつぶやいたけど、ローマ法王がその誤りを認めたのは、月に人類が降りてから20数年後の1983年だったというからね。
こんな明確な科学的真理さえ、宗教的真理を根源的に揺るがすものであると長く認めなかった。
一方、科学や数学の分野でもハイゼンベルクの不確定性原理や数学者ゲーデルの不完全性定理は物理学的なもの、数学的なものであっても不確実性を見出すもので、僕などは科学が神学・哲学に近づくような気がするのはやはり不確定性原理や不完全性定理を文学的文脈で読むからかなあ。
いずれにしてもローマ法王が言うように、「自然科学と神学の間の方法論的違いは大切だ。この相違こそが短絡的な結論から科学と信仰の両面を守ることになる」となるのだろうか。

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20世紀を代表する数学・論理学者ゲーデルの不完全性定理とは「自然数論を含む理論Tが矛盾ならば、Tの無矛盾性を表す命題は、その体系で証明できない」というもので、分かりにくいけど、この定理を人間の理性一般における限界、人間の心はどんな機械でも越えられないことの証明と言われればなるほどと思うような気もしたけど、でもこの定理を現実の人間や機械に適用するのは実は無意味らしい。
一方、最新の認知理論は演劇・音楽・アニメなどのアートは特別の人の神秘的な作業、いわば心の表象としての作業とも思われるものが、表現の成立過程を探る試みのなかで、どのアートも微細な技術が中心にあるという。
たとえば指揮者の腕の動きを3次元解析すると、指揮者が違ってもチャイコフスキーなら楕円形、ブラームスなら三日月型に腕の動きが収斂し、演劇なら演出家が0.3秒単位でセリフの間を調整するという。
この新しい認知理論「アフォーダンス」と呼ばれ、「網膜から得た信号を脳で再構成して像を結ぶと言う従来の心理学ではなく、包囲する光そのものに周囲の環境の情報が実在するとする(日経新聞 生態心理学者 佐々木正人インタビュー)。

なんてのを読んでいると、ますます、科学・技術と哲学、心理学、あるいは宗教、混在してくるようだなあ。
たしかに演劇・音楽・アニメなどのアートは(バレエやフィギュアスケートなども典型的ですね)心の表象であり、突き詰められた技術であり、時に並行し、時に加速し、時に合一する。そして、そのきらめく光に撃ち抜かれるのだ。
などと、またよくわからぬ文学的文脈で読んでしまうのは、僕の視点がマンガや小説、映画でばかりで作られてしまったからかなあ。
「人間の身体が表現することでできる最も美しいもの、それがバレエです~」(山岸涼子)

テーマ:数学 - ジャンル:学問・文化・芸術