理系・文系を重ねて見る光景は
つくし
ここ岐阜でも桜の開花宣言はあったし、卒業式や入学式など季節感あふれるのは、変化が目に見えて気持ちも切り替わったり、とりわけ春はわくわく心躍る季節ですね。
いつものように母からつくしがあるからとの連絡ももらった。
なぜか僕はつくし好きということになっていて(まあ、たしかに好きではあるのだが、あまり広言はできない!?)、今でも実家の母がこの季節になると、近場で摘んだつくしを袴もきれいに取って用意してくれるのだ。
僕が子供の頃、つくし取りが大好きだった事を覚えているのだ。ただ、つくしの袴取りがなあ。
広げた新聞紙に摘んできたつくしをどさりと置き、袴を取り始めるのだが、のびやかで袴も少なく取りやすいのもあれば、ちんまりとして袴がびっしりついたのもあって、僕たち子供は取りやすいのばかりを選ぶから、母は何も言わずびっしりと突いた袴を取っていた。指と爪の間は真っ黒にもなるしね。
種無しスイカも種無しブドウもいらないけど、袴なしつくしは熱望したな。
そんな袴も取ってくれるのだから、申し訳ないというかありがたいというか。

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しかし、もうつくしくらいではないか。明確に季節感のある野菜(野草ですかね)といえば。
かつては図表のように野菜、果実、魚介類は季節ごとの出回期というものが明確にあって、食卓でも明確に季節が感じられた。
今やいつでもように、さらには日本産以外の知らなかったようなものも山ほど出ていて、1年中変わらないような食生活となってしまった。昨日行ったスーパーにはなんとスイカもおいてあった。
いいんだか悪いんだか。
歳時記も今や言葉だけになりつつあり、季節感のある行事もクリスマス、お正月、ひなまつりなどあるけど、バレンタインデーや節分などはチョコレート、恵方巻きなどビジネス絡みの印象も強くなった。
さて、今日はつくしの卵とじ。春だなあ。
画像の図表は1952年児童年鑑より。
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訃報 渡瀬恒彦 聞こえてくるのは「セーラー服と機関銃」
俳優の渡瀬恒彦さんが14日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去。渡瀬さんは4月から放送が始まるテレビ朝日の主演ドラマ「警視庁捜査一課9係」に出演を予定していた。(スポニチアネックス)

やはり、テレ朝「おみやさん」ほか、「十津川警部」などテレビドラマの主演も多く、映画スターの印象が強い兄渡哲也とちがった魅力を持つ人だった。
僕にとってはやはり映画の人で、忘れられないのは薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」。
なんと薬師丸ひろ子の初キスは「セーラー服と機関銃」での渡瀬恒彦なんですよね。

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まあ、恋愛によるものではなく、事件も解決し堅気となったはずの元目高組の渡瀬恒彦の思いもかけぬ遺体への惜別のキスなのだが、切なかったなあ。
「生まれて初めての口づけを中年のオジンにあげてしまいました。ワタクシ愚かな女になりそうです。マル」

今なら分かる愚かなる大人、男たちへの愛情あふれる少女からの惜別のキス。
そして、少女も大人となっていくのだ。
「セーラー服と機関銃」は今やアイドルの登竜門的作品で、今を時めくアイドル、若手女優が続々と挑戦するけど、やはり、薬師丸ひろ子版(相米慎二監督)は別格の名作だ。
遺作ともなったテレ朝のニ夜連続ドラマスペシャル「そして誰もいなくなった」もよかったけれど、やはり渡瀬恒彦さんのエンディングには「セーラー服と機関銃(夢の途中)」が僕の耳には流れてくるのです。

テーマ:俳優・男優 - ジャンル:映画

本格派の鬼 実は人生派 土屋隆夫
古い本や雑誌を整理して、ふと気に留めて読み始めてしまうときりがない。
だからよほど見ないようにしているのだけど、雑誌の記事などは書籍化されていないものも多いだろうから、手放せばおそらく二度と読めなくなるので、つい、手を止めて読んでしまうなあ。
こちらはミステリー雑誌「ルパン」の土屋隆夫のファンによるインタビュー記事。
土屋隆夫氏は知る人ぞ知るマニアックなミステリー作家で、改めて読んでみるとやっぱり博学だ。
特に演劇関係の知識がすごくて、岸田國士、真山青果、真船豊、三好十郎のものは全部読んでいるという。
僕なんかは岸田國士しかわからず、その岸田國士も名前を知るだけで読んだことはない。
どうも演劇作家希望だったらしく、歌舞伎も好きで近松もずいぶん読んだとありますね。
なんでも役には立つもので、中学の教師だった頃は先生の数が足らず、英語、国語はまあなんとか、全くの門外の音楽、歴史なども教えた。音楽は浪曲・詩吟、歴史は講談という具合に。
「大阪城落城」は得意中の得意で、そりゃあ、「果たして千姫の運命はいかに」と盛り上げて、いいところで時間となりましたなどとやられては楽しかったに違いない。

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奇怪な事件を描く本格ミステリー作家は意外なほど楽しい人だった。
インタビュアーは素人のファンなので、ずいぶんなことも聞いていて、文壇付き合いはまったくないとか、そんなに寡作で食べていけるのですかとまで聞いている。そんな質問にも土屋さんはニコニコとご心配下さらなくてもと答え、偏屈で孤高の本格派との思い込みをきれいに払拭する鷹揚さです。
土屋隆夫氏は本格派と呼ばれるようにいわゆる社会派とは一線を画しているのだけど、たとえば社会派の雄、松本清張について犯罪の動機が官庁腐敗、汚職であったとしても、究極のところどんな犯罪でも女房のためであったり、わが子やわが身のためであり、その原因をたどれば個人の欲望や保身のためだと言います。
だから自分はいつでも家族のため、わが子の復讐のためとか、卑近なものを犯罪の動機としてしか考えることができないと。
そして、自分は本格派ではなく、人生派だと。
東電や東芝もこうした視点から描くことも大切かもしれない。
土屋隆夫氏の紹介になってしまった。みんなも読んでくださいね。

テーマ:文学・小説 - ジャンル:小説・文学

他人ごとではない既婚警官の保身、東芝の保身…
福岡県警小倉北警察署の40代の男性巡査部長が去年、既婚者でありながら妻とは別の女性と結婚披露宴を開こうとしていたことが分かった。巡査部長が既婚者と発覚したのは、会場で披露宴が始まる直前だった。
披露宴にはそれぞれ親族など数十人が参列することになっていた。しかし当日、巡査部長側の親族は1人も現れなかった。披露宴が始まる直前に巡査部長を問い詰めたところ、巡査部長は自分が既婚者であることを認めた。既婚者でありながら、いったいなぜ披露宴寸前までいったのか。巡査部長は県警の調査に対し「ずるずるとこうなってしまった…」と話しているという。(日テレニュース)

全く誰もが信じられないと思うようなことがあるのだ。
恥をかくようなことがあっても、あるいは修羅場になることがあってもプライベートで済んだはずなのに、なぜ人生を台無ししてしまうような時まで来てしまったのか。
そして、それはあの日本の誇りのような企業東芝であっても。
何度も何度も修正、回避の機会があってもことごとくその場の保身に終始し、どうしようもなくなろうという時さえ、なお、隙あらば保身に走ろうとする。

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あるいは福島原発事故で追い詰められているはずの東京電力がなお柏崎刈羽原発の免震重要棟の耐震性不足を把握しながら原子力規制委員会に報告していなかった問題などを見ると、まんざら他人ごとではなく、人間、社会の本質に巣食うものなのだろう。東芝も東電も目先の原発という夢に、妄執に足元をすくわれてしまった。
東日本大震災、福島原発の悲惨な事故を見ながら、当事者でもありながらなお切り替えることができなかった。
その卑近な例が既婚者でありながら別の女性と披露宴まで行ってしまった巡査部長!?だと思うと他人ごとと笑うことはできない。
個人でも企業でも、あるいは国家でも、どちらかと言えば誇り高い者ほど、その誇り高さのゆえ退くことが難しくなる。
よく考えればいつも危うい時は慎重に、いざというときは退く潔さを持ち続けたからこそ、自ずと積み上げられた伝統であり誇りであるはずなのに。
東芝では「悪い原発を残して、良い半導体を売る。これが果たして正しい経営なのか」という正論も出たけど、追い詰められた中ではそんな声も届かない。
「再稼働のルールも守らずに、再稼働を急ぐ。これが果たして正しい経営なのか」
「年金の破たんも見えているのに、その場しのぎの対応に終始する。これが果たして正しい国家のあり方なのか」
ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人は「私たちのあとは大洪水」と言ったけど、ちゃんと自覚はあった。
あまり貴族的な滅びの美学のようであっても困るけど。
画像は映画「卒業」。あれもあとは「野となれ山となれ」みたいな感じだけど、不安はあってもまあ、未来ある青春だからね。
たとえ後悔するようなことがあってもやってみる価値はある!?

テーマ:気になったニュース - ジャンル:ニュース

格納容器内部の自走式サソリ型ロボットの困難
東京電力は2月16日、福島第1原発2号機の原子炉格納容器内を調査するために投入した自走式のサソリ型ロボットが、目標としていた原子炉直下の作業用足場に到達できなかったと明らかにした。(毎日新聞)

格納容器内部の調査はやはり困難を極めるのだな。
内部の様子がまず把握することが、溶け落ちた核燃料の回収のための第一歩ですからね。
しかし、いかに困難で、これからも長い長い試行錯誤が続くというのに、東京電力は柏崎刈羽原発(新潟県)の免震重要棟の耐震性不足を把握しながら原子力規制委員会に報告していなかったり、大丈夫なのだろうか。
自走式のサソリ型ロボットの開発元もたしか東芝だけど、東芝も原発にどっぷり浸かって解体の危機に瀕してしまった。
基礎、初心をおろそかにするとロクなことにならないという福島原発事故の教訓だというのに、廃炉の目途も今だ立たず、原子力規制委員会のルールもおろそかにして、ひたすら再稼働を急ぐのはどうかしている。
僕は必ずしも再稼働そのものには反対ではないけれど、こんな体質ではさっさとやめたほうがいいのかもしれない。
地震・火山、津波などの屈指の自然災害大国には本来原発は向かないし、放射性廃棄物を安全に捨てる場所もない。
というならばと、海外を夢見た東芝も気が付けば見果てぬ夢でボロボロ。

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政府も国内は難しいとみて、日印原子力協定を締結するなど原発の輸出を急ぐけど、財政難による事業中止のリスクや事故が起きた際の責任をメーカーにも求められる賠償制度も詰めず、急ぐのはリスクが大きいでしょう。
あとあとコントロールが難しくなるような兵站?は広げるべきではないと思うなあ。
ひとたび重大事故が起きれば、メーカーでも、あるいは一国家レベルでも対応は難しいというのが福島原発の教訓だった。
電力事情も原発という火中の栗を拾うような選択肢のみに追い込まれているわけではないし、再生エネルギーなどむしろ日本の自然に見合ったものこそに恵まれている。
急ぎ安全確実に拾うべき火中の栗はまさに福島原発の原子炉格納容器内に溶け落ちた核燃料 (デブリ)なのだ。
自ら落としてしまった栗なのだから。
東電、東芝には廃炉への自走式ロボット、2重3重の安全対策、放射性廃棄物の安全、確実な廃棄、あるいはもっと多様な再生エネルギーの開発など、日本ならではの「凄ワザ」を見せてほしいものです。
錬金術は「物質」そのもの変えるのではなく、新しい可能性を見出すもの
さて、錬金術と言えばパラケルスス。
たぶん種村季弘の著作などで知ったのだろうけど、パラケルススでなくても「グイン・サーガ」などファンタジー小説やアニメに錬金術師は欠かせない。
「鋼の錬金術師」の人気が高かったのは、今の時代に沿うような科学と魔法を繋ぐものだからだ。
錬金術はミダス王の古代ギリシャの時代に始まるけど、ルネサンス期の最大の錬金術師パラケルススは魔術師的伝説とは違い、意外なほどまっとうな科学的史観にもとづいていたともいわれ、いずれにしても科学の発展における彼らの功績は想像以上に大きいらしい。
たとえば原子番号53の「ヨウ素」。何のことかと思うでしょうけど、まあ、錬金術ですからね。話も飛ぶのだよ。

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以前は海藻類から分離してうがい薬やヨードチンキのような消毒薬に使用され、いまはレントゲン造影剤の需要も多く、また、生体としても必須元素であり、あるいは放射能対策のヨウ素剤としても欠かせないもの。
さらにはかつて液晶大国日本を支えた光学フィルムのひとつ偏光フィルムもそうで、ヨウ素がないと作れず、また次世代太陽電池にもヨウ素は大きな期待を持たれているらしい。
ヨウ素はかつて海藻を原料に工業的に生産され、現在は天然ガス、石油などの副産物と生産されており、そしてその生産国はチリが6割、日本が3割でそのほとんどが千葉県らしく、ことヨウ素に関しては資源大国なのだ。
つまり、このヨウ素だってずいぶんさまざまに錬金術的変換を遂げているともいえるのだ!?
思うに錬金術とは科学的史観を持って「物質」そのものを変えるだけではなく、むしろ「物質」に新たな可能性を見出す希望の科学でもあるのだろう。
パラジウムの核変換だけでなく、ありふれた物質が思いもかけぬ大切な資源となることもあるのかもしれない。
放射能の汚染物質も無害、あるいは有用な物質に変わること、ちがう可能性を見出すことができるのかもしれない。
地球ではありふれた生命も宇宙ではなお生命の欠片すら見つかりえぬ奇跡なのだから。
とはいえ、錬金術というのは怪しいいかがわしさも合わせ持つから、危険とも紙一重なのもわすれてはならないけど。
現代の錬金術 パラジウム107→パラジウム106
理化学研究所は、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)に含まれる長寿命の放射性物質を、生活に役立つ貴金属に変える実証実験に2018年度から着手する。理論上は可能とされるがこれまで実用化には至らず、「現代の錬金術」とも言われるが、実現できれば、処分に困る「核のごみ」の減量や有効活用にもつながるという。実験は、内閣府が主導する革新的研究開発推進プログラム「ImPACT(インパクト)」の一環。まずは、核のごみに含まれ、放射線量が半減するのに650万年かかる放射性物質「パラジウム107」を、宝飾品や歯科治療、車の排ガス浄化用触媒などに使われる無害な貴金属「パラジウム106」に変える。理研仁科加速器研究センター(埼玉県和光市)の加速器で、「重陽子」(陽子と中性子各1個で構成)のビームをパラジウム107に当て、原子核の中性子が1個少ないパラジウム106に変える「核変換」の実現を目指す。パラジウムの核変換実験は世界初という。(毎日新聞)

まさに現代の錬金術。錬金術は大いなる科学の発展をもたらしたけど怪しげな人間の欲望をあおってきたのも事実です。
まあ、ミダス王のような触れたものが全て黄金に変わるような理論的にありえないことはともかく、たしかスーパーマンだったと思うけど、石炭を強く握りダイヤモンドに変えてしまうというのはちょっとありえそうでしょう。
パラジウム107→パラジウム106と変えてしまうことが理論上可能というなら、ミダス王のような強欲ではないけど、この夢のような核変換技術にもなにか落とし穴はないだろうか。

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ギリシャ神話のミダス王のミダスタッチ(彼の触れるもの全て金に変わってしまう、食べ物も愛する娘も)の話は、「宇宙家族ロビンソン」でも似たようなエピソードがあるほど人類の教訓(善かれ悪しかれあるべきものはあるべきままがよい)として出てくるけど、神話の中ならともかく、現実の地球、人間の世界では可能なのかどうか、ちょっと不安ではある。
自然の摂理のうちにある変態、メタモルフォーゼとはちがうのだろう。
それにしても物理学のヒッグズ粒子、ダークマター、宇宙の始まりの解明などは、だんだん自然科学は哲学・宗教に近づいているような気がするなあ。
もしかすると自然科学も錬金術、魔法の時代に回帰しつつあるのかもしれない。

画像は「爪と髪の呪術」より。
爪と髪は肉体を離れたとたん、異質なものに変わるという。爪や髪は五感から離れたところにあり(切っても痛くない)、他の肉体より早く固有の速度で成長するから寄生する異体とみなされた。(ゾロアスター教)
かくのごとく、哲学も宗教も呪術も事実の科学的検証から始まるのだ。
そして科学、宗教、魔法などに分化していくのだけど、現代はまた原初に向けて収斂しつつあるのかなあ。
また、爪や髪はいずれも一般的に強く女性が執着するものだから、巫女や魔女などと結ばれがちとなるのかもしれない。
カプセルホテルは家具、時間旅行を管理するのは
先日の「タモリ倶楽部」は東京五輪はビジネスチャンス!カプセルホテル王になろう!!というもので、 最新のカプセルのご紹介。ちょっとびっくりしたのはカプセルホテルが部屋の扱いではなく家具の扱いだということ。
鍵や窓を付けてしまうと部屋の扱いになり、法律上いろんな規制が出てきてしまい、格安での提供が難しくなるらしい。
そういえばジェットコースターの扱いもそんな感じだったなあ。
あの怖ろしく過激で楽しい?乗り物のジェットコースター、当然、時には事故も起きるのだが、事故調査に入るのは国土交通省の運輸局ではない。列車や飛行機事故ばかりではなく、簡単なスキー場のリフトだって運輸局が乗り出すのにね。
なぜか、そして管理をするのはどこか?
どうも建築基準法の適用で県の住宅課、土木事務所などが報告を受けるものとなっているらしいのだ。

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出発点と終着点が同じで移動しないという理屈で構造物という扱いらしい。ははあ、なるほど。
遊園地のコーヒーカップも回転木馬も同様で、やはり遊園地という空間は日常にぽっかりと空いた異世界であるのだ。
となると、時間旅行、あるいは他次元空間への移動はどうなるだろうか。
時間軸、空間軸の移動はあっても出発点と終着点は同じでいいのだろうか。
この理屈でいうと場所が移動しない場合、やはり国交省の管轄にはならず、SFにあるように時間管理局などの管轄になるのか。
官庁の権益確保の争いは激しいと聞くから、遥か将来を見据えれば少しでも関連するような官庁はジェットコースターの管轄を早めに囲い込んでいたほうがいいかもしれない。
久しく遊園地も行っていないけど、コーヒーカップのようなのんびりしたものでも気持ち悪くなっちゃうのはタイムマシンと同じ時間管理局になるからなのかなあ。

画像はアニメ版「時をかける少女」。
下らないことに貴重なタイムリープを使ってしまう、それが青春。
出発点と終着点が同じジェットコースターようなタイムリープ。
遊園地は子供の、恋人たちの、それを取り巻く人々の夢のタイムリープな空間なのだ。
そして、夢もまた出発点と終着点が同じなのだろうか。

テーマ:建築 - ジャンル:学問・文化・芸術

ダイオウイカも宇宙デプリもみんな網の中
宇宙航空研究開発機構(JAXA)が国際宇宙ステーション(ISS)に物資を運んだ日本の無人補給船「こうのとり(HTV)」、H2Bでの打ち上げ、物資輸送は正常にこなしたが、宇宙ゴミ除去につながる実証実験は失敗してしまった。
人工衛星やロケットの残骸など、宇宙空間を漂う無数のデブリ(宇宙ごみ)は増えるばかりで、いかに取り除くは緊急で重要な課題。今回の実験は大きな期待が寄せられていたけど、残念ながら機体から伸ばす機器が動作せず失敗した。
ところで、このニュースが伝わると漁網の専門メーカー日東製網の株価が続落した。
なぜか。

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どうやらこの宇宙ゴミ除去装置、高速で飛ぶデブリに網状のアルミ製ワイヤを接続、発生する磁力で減速させて大気圏に落とすもので、この網状のアルミ製ワイヤを製作するのが魚網メーカーの日東製網で、いや技術はどこに広がるか分からない。
定置網では生きたダイオウイカが捕らえられたし、網はなんでも拾い上げるなあ。
宇宙船というように宇宙はやはり海なのだ。
宇宙戦艦ヤマトも宇宙海賊キャプテンハーロック、エメラルダス、オーディーンも、まさに船。999は鉄道だけどね。
ブラックホールの手前に網などを仕掛けておけばヒトデ(星のことです)などバンバン獲れそうだし、宇宙の海では豪快、華麗なスイングバイ漁法なども生まれそうな気がするぞ。
漁網メーカーもいつか宇宙にはばたく。
天網恢恢疎にして漏らさずとデプリもいけたらいいなあ。
しかし、福島原発の溶け落ちた核燃料デプリといい、あらかじめ処理を予定しなかったデプリはまったく始末に負えない。

テーマ:星・宇宙 - ジャンル:学問・文化・芸術

クジラ、ゾウ、そしてヒト
高齢化はこれからどんどん進むばかりだから人口比的にいえば高齢者の存在感は増すばかりだけど、一方、現役感は薄くなるから、効率が重視されるような社会では有形無形にご迷惑感が生まれてきたりして、人口比に反比例してマイノリティというか肩身が狭いような生きにくいような社会が予感されます。
かつて石原慎太郎元東京都知事の暴言に「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です」というのがあるのだけど、ではジジイはどうなのか。
これはそもそも松井孝典(惑星科学、物理学者)からの軽率な引用で間違いらしく、本来の意味での松井教授の言説は進化生物学、人類学のなかで認められているらしい。
すなわち、子供を生まなくなったおばあちゃんという存在は、生物全体を見ると極めて少数派で、ヒトと、一部のクジラや象にしか見られないと。

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一般的には哺乳類の寿命は繁殖能力を失う時期と一致するけど、一部例外がクジラ・ゾウであって、親離れが遅かったりするなかで、経験の豊富な高齢なクジラなどが孫の教育をしたり、食料を与えたり群れの繁栄に大きく寄与しているというのが「おばあさん仮説」。
人類の異様なまでの進化・発展・栄華をみれば、女性・おばあちゃんのおかげということにもなるだろう。
むしろ進化しすぎて地球を危機に至らしめたのは誰だ?という逆説的な批判が出るほどに。
男性・おじいさんはどうかというと、まあ単純で盲目的に種の保存のみで…どうやら人類の繁栄に女性ほどは貢献していないらしい。 まあ、それでも男性・女性を問わず、お年寄りの経験や知識は大切だった。
そのヒトにおいても「急速に進むグローバル化と競争原理の中で効率だけが求められ、これまでのお年寄りの経験や知識が意味を持たなくなっている」(国立民族博物館の野村雅一教授)、それはある程度認めていかなければならないけど、それでもそれをなしえてきたのは過去の蓄積の上に立ってはいるのだ。
江戸時代、能力が衰えなくても早く隠居に入る人も多かったけど、隠居後においてもいつでも活躍できる場と尊敬する心という社会的基盤があったからで、この有形無形のインフラを失えば、今後は高齢者というだけで葛藤もなく「楢山節考」のようなことが復活するのかもしれない。
資本家と労働者、あるいは男と女、人類はさまざまに対立と協調のもと、共生し未来を築いてきたけど、これからは老若の関係が肝で、効率以外の多様な視点も必要なのだろうなあ。
いや、やはりすべてのマイノリティは明日への希望なのだよ、たぶん。
最後の「ラジオな日々」
さて、最後の「ラジオ」な日々です?
学生の頃、深夜まで起きていたのは勉強のためではなくラジオを聴くため、あるいは深夜まで起きて勉強していたという言い訳のためだったのが本当のところ。
さすがに「走れ歌謡曲」、または「歌うヘッドライト」が始まる頃にはほぼその目的は達成し、実は馴染みやすい歌謡曲をBGMに眠りにつくのだった。
『ラジオな日々』(藤井青銅著)はそんな時代のラジオ放送の最前線に立ち会った人が描くもので、面白い話が満載ですね。
放送作家(斉藤由貴 ネコの手も借りたいなど)でもあるのだけど、「星新一ショートショートコンテスト」の受賞者でもあったらしい。
やっぱり、古くは永六輔、青島幸男など放送作家は今に至るまで才能豊かな多いのだなあ。
しかし、深夜ラジオといえばやはり「オールナイト・ニッポン」。今振り返ってもすごいメンバーですからね。
画像は雑誌「バラエティ」のオールナイト・ニッポンの広告だけど、豪華でしょう。みんな若いし。

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タモリの「いいときだけのニッポン放送、陰で支える文化放送」という言葉は、言いえて妙。
つボイノリオもやっていたけど、どうだったのかなあ。オールナイト・ニッポンのつボイさんは聴いたことがない。
今や東海地方の朝の顔(CBC つボイノリオの聞けば聞くほど)ともいうべきつボイさんだけど、やっぱり下ネタだったらしい。
しかし、いいときだけ、いいときに変えるとも言われる「オールナイト・ニッポン」の凄さは変えられた人も多いけど、そのままに、あるいは場所を変えて活躍が続く人が多いのもそのタフさに洗われたゆえかもしれない。
また、ラジオはファンがつくと長くやってくれるので、志のある人は手を抜くこともなく、それゆえまた日常に当たり前のように組み込まれ続いていく好循環(マンネリ?)があったけど、最近はラジオといえども難しくなってきたかなあ。

テーマ:ラジオ - ジャンル:テレビ・ラジオ

「セイ!ヤング」 深夜ラジオの時代
深夜ラジオは続くよ。どこまでも。
さて、深夜ラジオを熱心に聴き始めたのもこの頃で?、この地方ではやはり「ミッドナイト東海」(アマチン・リコタン・森本レオ)ということになりますが、聴きづらいのを耳をすませて聞こうとしたのは文化放送「セイ!ヤング」だった。
みのもんた、土居まさるなどはともかく、落合恵子(レモンちゃん)には少し憧れた。
テレビ時代となり、衰退に向かうかと思われたラジオが深夜によみがえり若者に支持され、パワーを持った時代。
深夜は未開の自由空間で、ラジオが若者を誘ったのだ。

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ラジオからは局アナも含めてDJというスターも生まれた。
森本レオは俳優となり、落合恵子は作家、児童書のクレヨンハウスの経営でも知られ、今はときどきワイドショーのコメンテーターも務めていますね。
ずいぶん以前に糸山英太郎などとパネラーを務めた番組があって、なかなか違和感のある組み合わせだった。
画像は落合恵子原作の映画「スプーン一杯の幸せ」。
落合恵子はレモンちゃんの呼称がいやだったらしいけど、この映画のキャッチコピーもいやだったろうなあ。

~落合恵子のラブの世界を ひとり歩きする淳子 魅惑の17才~

これじゃ、あんまりだ。
「白鳥の歌なんか聞こえない」(庄司薫)の由美ちゃんなら舌噛んで死んじゃいたいみたいなコピーです(まだ、「ない」シリーズが尾を引いてる!?)。
金銭のことを軽々しくするな、金銭は品行である
ラジオや歌の話題が続きますが、ここらでひとやすみ、ひとやすみ。
てなわけで、森友学園の大阪府豊中市野田町の国有地約8770平方メートルの購入問題です。
「ごみ処理費用」の名目で8億円割り引かれ、学園側が支払うのは実質200万というのなら確かに変な話で、しかもほんとうにごみ処理をしたのかもどうかも怪しい。
小学校の建設予定地だから特別の配慮なのかもしれないけど、福島原発の事故で住む場所さえ失い、ようやく戻れても健康不安、風評不安が続く人々にとっては、それほど土地に配慮・徹底してくるれるのならこっちだろうという気分ではないか。
順風満帆たる安倍首相に思わぬ逆風となったのは、本来は支えるべきはずであった保守団体絡みという皮肉。
やはり、自らを傷つけ蝕むものは必ずしも敵にあらず、自らのうちに巣食うのだなあ。
まだ真偽は藪の中だけど、名を貸すのみと思ってもやはり影のように金銭がどこかしらついてくる。

友愛の諺は下記のごとくさまざまにあって、

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真の友愛は不朽なり(ピタゴラス)
艱難に会って初めて真の友を知る(シセロ)
密かにその友を諌め、公にその友をほめよ(ソロン)
悪友は汝を地獄に誘う(イギリス諺)
不信の友は公然たる敵より悪い(シェークスピア)
偽友と陰影は太陽の照らす時のみ伴う(フランクリン)
愚鈍な友ほど煩わしいものはない(ブルータス)
無知の友ほど危険なものはない(スペイン諺)
金を貸せると金も失い、友をも失う(イギリス諺)
金は借りる人にも貸す人にもなるな(シェークスピア)
金銭のことを軽々しくするな、金銭は品行である(リットン)

不信の友は公然たる敵より悪く、愚鈍な友ほど煩わしいものもなく、また無知の友ほど危険なものはない。
偽友と陰影はまさに太陽の照らす時のみ伴い、やはり金銭のことは軽々しくするものでなく、金銭は品行であるのだなあ。
そんな感じだろうか。
こうなると、そう簡単に「弾なんかはねかえせ ヤー」なんかとはいかない。
安倍首相夫人も「もう森友へなんか行かない」だろうなあ。

テーマ:歴史雑学 - ジャンル:学問・文化・芸術

弾なんかはねかえせ ヤー
ラジオ深夜便、たまにアニソンだってかかりますね。
先日の「べっぴんさん」では大阪万博も始まり、昭和の高度成長期で何もかも単純に未来を信じていたあの頃。
アニメも少し前後はするけれど「鉄腕アトム」「ビッグX」「スーパージェッター」など、まだまだ単純に科学の未来を信じていたあの頃。
歌も子供らしい単純さに満ちて元気があった。
といっても作詞では詩人の谷川俊太郎、作曲でも富田勲など、巨匠がずいぶん関わっていたりします。
この二人が作詞、作曲を手がけた名作が「ビッグX」。

弾なんかはねかえせ ヤー
ジェット機だって手づかみだ ヤー
鉄の身体がモリモリ伸びる
立ち上がれビッグX

軍艦なんか踏んづけろ
戦車だって手づかみだ
鉄の身体が正義を守る
立ち上がれビッグX

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あらためて聞いてると、気持ちのいいくらい乱暴な歌だなあ。
とても谷川俊太郎の作詞とは思えないような気もするけど、当時は子供の正義はこれくらいでいい…
ということなのだろう。
富田勲の曲もまた勇ましいのであった。

画像はまさに万博を翌年に控えた1969年の東映まんがまつりの映画ポスター。
見て知って遊んで楽しい万国博。
波乱の展開の「カルテット」は青春の光と影。

テーマ:アニメ - ジャンル:テレビ・ラジオ