理系・文系を重ねて見る光景は
「もう森へなんか行かない」 ラジオ深夜便
ときどき、ラジオをつけっ放しにして寝てしまうのだけど、やはりNHK「ラジオ深夜便」ですかね。
よく70、80年代の洋楽もかかるから、ふと目が覚めるとそのまま聞いてしまったりする。
あの頃の音楽を聴くと思い浮かぶのは映画やドラマで、けっこう映画音楽なども人気がありました。
ドラマにも洋楽が使われたりして、フランソワーズ・アルディなんかを聴くと、まず山田太一のドラマ「沿線地図」(フランソワーズ・アルディ もう森へなんか行かない)を思い出すものなあ。
しかし「もう森へなんか行かない」ですよ。もう今ならこんな邦題がつくことはないだろうなあ。
山田太一最後の連ドラ「ありふれた奇跡」もエンヤでいかにも山田太一な感じでした。
ちなみに「もう森へなんか行かない」「狼なんかこわくない」「ねこの森には帰れない」が僕の3大「ないシリーズ」ソングです!?  
惜しくも外れたのが「夢見る少女じゃいられない」。
歌にこだわらなければ「俺たちに明日はない」「大人はわかってくれない」「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」「僕は友達が少ない」「僕たちは戦わない」…いかん、キリがなくなってきた。

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いつだったかもシルビー・バルタンとジリオラ・チンクェッテイが特集されていて、このあたりの70、80年代の曲がよく使われているのは視聴者層、購買層が僕たちなのだろうなあ。
当時は音楽も映画も今ほどアメリカ一辺倒ではなくて、ヨーロッパ作品も意外なほど日本で人気があったのだ。
ビートルズは別格としても女優やアイドルとしても日本で人気がありましたね。
シルビー・バルタンなどは「アイドルを探せ」という映画も曲もあるくらいですからね。
ほんとうは気持ちよく眠れるはずだけど、かえって耳を澄まして聞いてしまうのだった。

野島伸司もドラマで上手く懐かしい洋楽を使うけど、山田太一とはまったくちがう選曲です。
NHK「お母さん、娘をやめていいですか?」がいよいよ最終回ですが、エンディングに流れる歌が久しぶりにそんな感じで、誰かなと思ったらサラ・オレイン「Little Doll」という曲だった。
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テーマ:AMラジオ - ジャンル:テレビ・ラジオ

洋楽の聖地 名古屋市公会堂
1960年代以降、著名な洋楽アーティストの公演が行われている名古屋市昭和区鶴舞の市公会堂で六日、公演パンフレットやポスターなどで歴史を振り返る展示が初めてあり、多くの音楽ファンが訪れた。
1930年開館の公会堂は、特にロック公演が集中した時期があったが、市に記録や資料は残っておらず、歴史の全容は分かっていなかった。今年四月から改修工事のため2年間、休館するのを機に、多くの公演を主催したCBCテレビが社内外で調査し、資料を集めた。65年のフランスの歌手シルビー・バルタンさん以降、英国のデビッド・ボウイさんやレッド・ツェッペリンなど、舞台に上がった150のアーティストに関する資料が並んだ。(中日新聞)

僕は岐阜の田舎だったから高校の頃まで滅多に街(岐阜市中心部)にも行ったこともなく、ましてや名古屋などはほとんど行ったこともなかったのだが、名古屋市公会堂には数回行ったことがある。
初の洋楽コンサートを見たのはシルビー・バルタンだったのだ。さすがに1965年の時ではない。
興味がよりアニメやマンガ、小説、映画などに向いて行ったのであまり行かなくなってしまったのだけど。
でもまあ、コンサートに行かないまでも音楽をよく聞いたのはこのラジカセ。
カセットテープは久しく回したことはないが、ラジオならまだ何とか聞けます。

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当時としては高性能、高機能でスタイリッシュなデザインもあって未だに持っているのだ。
まだステレオも置いているからなあ。最近はカセットテープの人気も復活しているという。
頭出しも出来ないアナログなところがいいらしいけど、テープが巻きつくなど悲しいこともあり、タイムトラベラーのオープニング曲もあれでなくした気がする。
もっと遡れば、録音なんてテレビやラジオの前で雑音を拾わないように静かにそっと録音していた。
まあ、僕の地元岐阜各務原には航空自衛隊基地があって、あとわずかというところでジェット機の騒音でずいぶん台無しにした。
ついでにLPを探してみるとシルビー・バルタンほか、映画のサントラ、石川セり、山崎ハコ、森田童子などもあって、暗い青春が忍ばれます。
いかん、シルビー・バルタン「あなたのとりこ」でも聴くことにしよう。

テーマ:洋楽 - ジャンル:音楽

森高千里 「この街」の風に吹かれて
自ら作詞を手掛けるのはフォークシンガー、ロックシンガーばかりではなく、最近はアイドルだって書きますね。
まあ、西野カナ、アイコ、家入レオなどはアイドルでもなく評価は様々かもしれないけど、独自ではあります。
人によってはほんとうに書いてるのかなあという人もいないではないから、独自であることはオリジナルの大いなる証明。
しかし、その独自性、作家性というなら、そのさきがけ性も含めて、やはり森高千里にとどめを刺す。
ヒットした「渡良瀬橋」や「雨」などもいいけど、やっぱり「この街」「青い海」あたりの歌詞が好きだなあ。

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森高千里は「非実力派宣言」でミニスカなどのアイドルのコンセプトに徹底していくけど、やはり森高の本質はこちらにあって、この「非実力派宣言」、本人にとっても隠された意味があったのかも。

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もちろん、「ミーハー」や「私がオバさんになっても」なんてのも森高ならではだけど。
いや、ボブ・ディランがノーベル文学賞なら、森高千里はなんだろうって気がしてしまった。
様々なアイドル、アーティストも登場したけれど、やはり、今に至るまで唯一無二の存在ではないだろうか。

青い海

海の見下ろせる さびれた街で
小さな本を 営む彼は
今年65 一人暮らしをしている…

最後の「海がとても青い」がいいなあ。

画像は「月刊ヴューズ」特集記事から。
ボブ・ディラン 最後はきっとうまくいく
やっぱり、ノーベル賞文学賞受賞となったアメリカのシンガー・ソングライター、ボブ・ディランにはびっくりした。
グラミー賞やアカデミー賞はともかく、ノーベル賞文学賞とは。
ノーベル賞文学賞って、経済学賞・平和賞と並んで、ちょっと危うい感じで、そこがいいのか悪いのか、まさに答えは風の中。
まあ、文学とはかくも幅広く、奥深いものかという証明なのかもしれない。
しかし、さすがはボブ・ディラン、受賞はしても授賞式には出席しなかった。
フォークシンガー(ロックシンガーでもあるけど)は永遠のさすらい人ですからね。(なぎらけんいち)
来る者は拒まず、ただ「風に吹かれて」さすらうのみなのだ。

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書店やCD店では毎回受賞の期待のある村上春樹作品を取り下げて、ボブ・ディランのアルバムを並べたらしいけど、あまり売れたという話は聞かなかった。そういうものでもないからなあ。
と思っていたら、意外なところでボブ・ディランを思わせるものが。ドラマ「就活家族」ですね。
題名のあとに 「~きっと、うまくいく~」と続いていて、あれはたぶん「心のままに進んで行け、最後はきっとうまくいく」というボブ・ディランの名言から。
家族それぞれに降りかかる災難に~きっと、うまくいく~との希望の言葉が添えられたように、ディランの望みでもある平凡で幸せな家庭を取り戻せるのだろうか。
主演の三浦友和はロック歌手の忌野清志郎の同級生で友人でもあったけど、その忌野清志郎も「風に吹かれて」を訳詞、カバーをしていた。全ての答えは風の中。
「校閲ガール」の河野悦子もびっくり 「岐阜信長歴史読本」
出版大手「KADOKAWA」(東京)が出版した「岐阜信長歴史読本」に、岐阜市が三重県、岐阜県笠松町が愛知県と記された地図など、明らかな事実関係の誤りを含んだ誤記、誤植が少なくとも三十カ所あることが分かった。編集に協力した岐阜市教委は「大変遺憾。(出版社に)適切な対応を申し入れしていく」としている。 (中日新聞)

しかもこの本、今年、信長が岐阜城に入城して450年の節目で、「KADOKAWA」からの提案を受けて編集に協力、広告料も460万円支払い、また市教委は地元への関心を高めてもらおうと240冊を購入し、市内のすべての小中学校や市立図書館に置く予定だったという。
市教委の担当者は事前に原稿に目を通していたが地図などは乗っていなかっため、気づかなかったらといい、誤記、誤植に対して同社は正誤表で対応する…ってなあ。
「校閲ガール」の河野悦子なら「信じられない」とあきれそうな話なのだが、この「校閲ガール」の出版元もなんと「KADOKAWA」であった。
「校閲ガール」の校閲部のモデルって「KADOKAWA」校閲部じゃなかったのだね。
ネット情報だけでなく、紙媒体もずいぶんと劣化してきた。

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誤記、誤植ではないけど、文部科学省は次期学習指導要領の改定案で小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改め、中学歴史でも「聖徳太子」を没後100年以上たって付いた呼称だとして「厩戸王」に変えるという。
そんなことを言い出したらきりがなくなってしまうんじゃないだろうか。出島などで一部交易あったにしろ、事実上の鎖国で独自文化などが花開いたのは間違いなく、「幕府の対外政策」などという分かりにくい言葉より、「鎖国」のほうが分かりやすく政策の本質も表すものだと思うのだけどなあ。グローバルな時代に都合よく過去も寄り添わせようということなのか。
厩戸王も山岸涼子の傑作「日出処の天子」の愛読者にはなじみのある名前ではあるけれど、長く親しまれた聖徳太子を変える必要はあるのだろうか。先人の知恵を失うようなことにならないか。
こちらも妙な換骨奪胎で劣化しなければいいけど。いずれ、校閲でももめそうな案件になりそうだし。

追記
全国のニュースでも大きく取り上げられたせいか、KADOKAWAはすぐさま三宅明ビジネス・教育部長が岐阜市役所を訪れて市教委の担当者らに謝罪、校閲作業をした上で、雑誌自体を作り直すとした。出荷分は回収し、既に購入した人には交換に応じるという。なお、岐阜市が購入した冊数はその後の報道によれば、240冊ではなく、約1000冊で、発行部数は1万冊というから1割に達し、岐阜市だけでなく岐阜県や県内市町村も期待で来そうだからおいしい商売!?別途広告料もあったのだからね。
歴史読本はシリーズもので「岐阜信長」が最新刊で9巻目。今後のこともあるからきちんと見直すことにしたのだろうなあ。
まあ、あまり後ろ向きになってもいけないので、双方、転じれば大きな話題になって、市教委の地元への関心を高めてもらうことも部数もかえって伸びそうな気もするし、校閲の大切さも再認識されそうだし(KADOKAWAでは組織的なチェック体制が機能していなかったとし、対策チーム立ち上げた)、やっぱり「校閲ガール」が利いたのかもしれない。

離さないよ君を もう二度と 校閲ガール…、あ、高気圧ガールだった。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

「怒りの荒野」の ガンマン十戒
最近は様々な事情であまり製作されなくなった西部劇。
今から見ればいろいろ問題もあるけれど、やはり子供の頃は単純に楽しめたし、面白かった。
イタリアで作られたマカロニウエスタン(クリント・イーストウッドも初期の頃、主演していたりする)というのもあり、こちらなどはさすがマフィア発祥の地、より非情、殺伐だったりします。
「怒りの荒野」はジュリアーノ・ジェンマ、リー・ヴァン・クリーフのマカロニウエスタンの2大スター共演の名作で、若いスコット(ジュリアーノ・ジェンマ)が老練で悪党・凄腕のタルビー(リー・ヴァン・クリーフ)から早撃ちのレッスンを受ける「ガンマン十戒」が有名です。
いい教訓もないわけではないけど!?、基本、非情であります。

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ガンマン十戒

一 決して他人にものを頼むな
二 決して他人を信用するな
三 決して銃と標的の間に立つな
四 パンチは弾と同じだ。最初の一発で勝負が決まる。
五 傷を負わせたら殺せ。見逃せば自分が殺される。
六 危険な時ほどよく狙え。
七 縄を解く前には武器を取り上げろ。
八 相手には必要な弾しか渡すな。
九 挑戦されたら逃げるな。全てを失う事になる。
十 殺しは覚えたらやめられない。

まあ、日本の裏柳生などの口伝も空怖ろしいが、こちらは妙にリアルで怖い。
ともに映画のなかだけであってほしいものです。
せめて、字句通りではなくこれくらいの気持ちで臨めということで。

不謹慎かもしれないけど、ちょっと思い浮かべたのは電通の象徴的体質として取り上げられた「鬼十則」(電通の過労死の問題は論外です)。
「鬼十則」にも「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは」などという非情な言葉が語られているけど、字句通りというか、字句以上な言葉で、態度で当たってしまった。
タルビーは悪党を自覚していたけど、自覚もなく言葉だけに踊らされる怖さがもっと怖ろしい。
偽ニュースと疑似科学
偽ニュースが事実のように拡散していくことを「脱真実(post-truth)」というらしい。
捏造された情報が今はインターネットからソーシャルメディアを通じて一気に広がっていってしまうのだ。
偽ニュースとはいえ、真実を含んでいたり、意図に沿うようにというか、願望に沿うように意匠され、ますます信じやすくなってしまうようで始末が悪い。
実際、米大統領選やイギリスのEU離脱だってその影響がないとは言えないのかもしれない。
僕はニュースもまずは新聞派なのだけど、ネットのニュースは新聞に比べておそらくより選択的、気になる情報のみをピックアップしがちになり、さらには同意さえ探してしまいがちですね。
無関心なニュースには目もかけず(実はつながりがあるのかもしれない)、多様な情報があるにもかかわらず、突き合わせて真実を見定めようとする力が弱くなっているのかもしれないなあ。

僕の実家では子供の頃から新聞を複数取っていて、新聞によって同じニュースでも印象がなんとなくちがうなあと思っていたし、広い紙面に様々な記事があると、つい目が追って、いつの頃からか全ページ目を通すようになっていた。
たとえば日経新聞なんて経済記事や株式情報ばかりとか思うかもしれないけど、読むと意外に文化欄が充実していますからね。
というわけで、いちおうは何でも見てみよう、読んでみようという感じになった。
今は新聞よりもネットニュースがメインになりつつあるから、より選択的になり、たしかに真実かどうかよりも「信じたい情報」かどうか、あるいは食いつきのよさげなものが優先される傾向があるかもしれない。
食いつきのよさというのは最近のアニメやドラマが典型だけど、最初の第1話が面白くなければ後は見てくれないと、手っ取り早く食いつきのよさそうなものばかりになりがちです。
視聴率も昔のような圧倒的な高視聴率のものもなくなり、視聴の多様化とかと思えばそうでもないらしく、テレビ以外に興味のありようが移ったり、また、自身の興味以外に目が向かず、幅広い好奇心が失われているのかもしれない。
ある程度、世界観のあるものは最初から都合よく面白くはならないし、辛抱して見てこそ、見えてくるものもあるのだろう。

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現代社会は自由で個性も豊かにあるようでもありながら、実は真逆の均一化に向かっている。
多様な情報のなかにあっても、意図に沿うように、願望に沿うように自らが選択してしまうのなら…。
情報が多様にありすぎて、それぞれに吟味されないままに第一印象で切り捨てられてしまうなら…。
そして、それはあっという間に伝播し、既成事実化される。
疑似科学もずいぶん人を惑わせてきたけど、とうとう偽ニュースにも惑わされる時代がやって来た。
以前に日経新聞で宇宙物理学者の池内了が疑似科学を批判して「いつの時代も社会は矛盾と非合理に満ちていますが、それに対してきちんと抗議の声を上げる態度が弱まっています。政治家や官僚の腐敗、格差の拡大…おかしいと思いつつも深く考えず呑み込んでしまう。これは疑似科学のような不合理なものを黙認しようとする態度に通じます」
またこの対応策としては 「何より子供への教育で、血液型や星占いといった身近な話題を題材にその非合理性を教え、人生の入り口で物事を疑うという科学的な態度を身につけることが大切です」(池内了)と。
子どもの頃は宇宙や怪奇など、科学と迷信が混然とあり、その壮大さや不思議に夢中になったりしたけど、大人になり常識も身についてくると自ずとその区別も付いてきます。
まあ、占いなどもインチキとは言わないまでも少なくとも科学的根拠はないと承知しながら大人は楽しんだりするわけですが、最近はその境界がいよいよ分かりにくくなっている。
大人もまた情報の洪水の中で境界を見失いつつある。

画像はH・G・ウェルズの「宇宙戦争 」。オーソン・ウェルズがニュース仕立てのラジオ番組化して、全米は大パニックに陥った。
火星人襲来のようなまずは荒唐無稽と疑ってしかるべきような事案でも信じてしまうのだからね。
今は多様な情報を得る手段を持ち得ているはずけど、むしろ今のほうがずっと危ういのかもしれない。
学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし
クイズ形式のバラエティが本当に多くなったけど、これも知識に対する欲求と遊びを効率よくやろうということなのだろか。
かつての「たけし城」などはまあ恥はかいてもかかせても、視聴者とともに悪意なく楽しめるバラエティでもあったけど(悪意がなければいいというわけではないけど)、今はそんなとこからも悪意を見つけ出し、醜悪なものにさえ変えてしまいそうだからなあ。
それはともかく。
これで得られる知識って物知りになるだけで、そこから考えることはあまり問われないですね。
たびたび、引用させていただく池内了(総合研究大学院大教授は、
「情報化社会となって、多くの知識が簡単に手に入るようになった。それによって学ぶ機会はますます増えているのだが、それの反比例して思うことが少なくなってきている、正解ばかりを出すことが評価され、ついには『テレビで言っていたから』『エライ先生が太鼓判を押したから』と人づての知識に頼るようになり、自らの頭で考える癖を失っている。民主主義とは自分がどう考え判断するかに基礎をおいているシステムだから、『思う』を失うことは民主主義の危機と言い、さらに最近の学生の傾向は知識に強い学生は、意見を求めることやその論理的表現力に弱く、逆に知識は弱いのに意見を述べさせると強い学生がいるという。

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「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」

「学ぶ」とは先人が発見し蓄積した知識を身につけていくことで、それがあればこそ文化が継承される。それに対し「思う」とは自分なりの意見や考えを付け加えていくことで、それがあってこそ、文化は豊かになっていく。「学ぶ」だけで「思う」がなければ干からびた知識の集積でしかなく、真理が明らかにならないし、「思う」だけで「学ぶ」がなければ根拠や論理性のない空論や暴論がはびこって危うい世の中になってしまう。「学ぶ」と「思う」が車の両輪となってはじめて文化は重層的に発展し安定した世の中になる…と池内先生は続けています。

マニュアル、アーキテクチャな現代社会、さらに未来はよりそうなってしまうのだろうか。
オタクこそが伝統主義にもとづく担い手になれずはずだったのだけど、最近はどうも怪しくなってきたし、かくいう僕もブログを書くにあたってウィキペディアを利用してしまうし、引用ばかりになっちゃうものなあ…と自戒をこめて。
遊ぶ日本 神あそぶゆえ人あそぶ
「遊び」は神の業であった。人は神に倣う事でしか遊びを知る事はできない。
かつて神々は遊び、人々は神々を演じ、倣う事で近づこうとした。
「遊び」こそが日本を動かし続けた力だったという観点から、日本史を辿りなおすのが、「遊ぶ日本 神あそぶゆえ人あそぶ 」(高橋 睦郎/著)。
平安貴族はドラマなど見てると和歌ばかり詠んでいたような気もするけど、実際、そんな人も多かったらしい!?
また性的にもおおらかで遊女も決して蔑まれるものではなく、まさにそれこそ神の模倣であり、尊ばれることであった。

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著者は明治維新の変革のなかで神々は死に、神々の死によって神々と日本人の遊びは終わってしまったという。
たしかに今のような経済論理に縛られるような窮屈な時代は無駄を省き文明の発展を著しいものにしたけど、かたや子供・弱者・老人など遊びのなかでも特別の役割を期待される多様な存在は、神々と同様にその役割を失いつつあるのかもしれない。
マンガ、アニメ、ゲーム、J・ポップ・J・ファッション、テレビのバラエティ番組などが、J・カルチャーとして世界に浸透したのは、その遊びの風土が生かされていたからだとすれば、もう一度見直すべきことも多いだろう。
子供は道草もせず、雑草をもバイオ燃料にしてしまう現代はすごいのかもしれないけど、無駄や遊びをそのままの存在として、尊ぶという風土はもうないのだろうか。
お昼からのんびり和歌を詠んでいた平安から江戸の人々まで、いや、まだ昭和だってずいぶんゆったりとしていた。
宅急便やスマホなどなんでも効率的・便利になったけど、ゆっくりとぼんやりとすることもなく、慌ただしく呟いたり、届けられる荷物の日時に目を奪われすぎてかえってギスギスしたり、まあ、余裕をもって準備したりしておけばどうってことないことを忘れてしまった。
やはり余白の少ない時代はほんとうの遊びが生まれて来ず、文化の危機なのかもしれない。
文化と経済のスパイラルもほどほどに
マンガ・アニメ・ゲーム、さらにはJ・ポップ、J・ファッションなどというコンテンツが世界に通用することが理解されてから、それを市場に経済発展にどのように取り込むか試行錯誤がなされ、また爆買いからコト消費に移りゆく中で、さらに日本の風景、文化、サービスなどあらゆる日本的なものも経済的コンテンツになりうると分かった今、それらすべてを複合的に経済につなげよう懸命だけど、そればかりでいいのかなあ。
日本では文化が経済の装飾品に過ぎない時代が長く、いわば放っておかれたものなのだ。
今、文化への期待が熱く語られるのはアニメなどコンテンツが富を生み出すことがわかったからで、総論では一致を見ても、各論になると文化と経済の言葉がかみ合わなくなるのだろう。

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まあ、そもそも文化が経済の装飾品に過ぎない時代が長かったというのは文化そのものが今まで市場から無視されてきたというか、経済原理とかけ離れたところにあればこそ、独自で自由な発展を遂げてきたのだ。
古来、洋の東西を問わず芸術の発展にはパトロンの存在が大きく、たとえば茶道の利休にしても秀吉の存在を抜きでは語れないし(利休と秀吉の例は微妙かな?)、基本的にパトロンというのは富も権力も持ちえているけど、こと芸術には本来、経済的原理を持ち出さない人達なのだ、たぶん。
オタクな人々は富も権力も持ちえてないけど、経済原理を越えて無償にその作品世界に奉仕する人という意味ではパトロンにふさわしいのかもしれない。
そんな世界に市場原理のみを追求してきた人たちが入り込み、市場原理に組み込もうというのだから噛み合うはずがない。
「風の谷のナウシカ」で語られるように「多すぎる火は1日で森を焼き尽くし、風と水は100年をかけて森を作る」、せめてこれくらいの経済原理に留めてくれないとなあ。
そうでないと、豊かで穏やかな青く美しい海も飽くなき経済原理というピラニアにあっという間に食い尽くされしまうかもしれない(ピラニアは海にはいませんけど)。
そんな今、政治の世界にさえ経済原理、ビジネスの手法を携える大統領が登場した!?
ここはオタクの踏ん張りどころなのかもしれない。
オタクが“地域格差”を感じるとき、それもまたよきかな
東京に住んでいるとなかなか気付かないが、地方に住んでいるオタクは地域格差を感じることがあります。「アニメの放送日が遅い」「イベントがあるときは都会まで遠征しないといけない」など、悩みはつきない。
アニメについては、今でこそネットで多くのチャンネルを視聴できるけど、リアルタイムでの配信はまだまだ多くはなく、ネタバレ問題は地方民にとっては死活問題なのです…、あるいはオタクは日々の情報収集が命です。アニメ、漫画、ゲームなど、多くのニュースが毎日配信されていますが、彼らはどうやって情報を集めているのでしょうか。(ITmedia PC USER)

などというニュースがあったけど、どうも オタク向けニュースアプリのもあるらしい。
昭和の時代、地方に住むオタクであった(アニメ、少年少女マンガ、映画、アイドル、SFなど)僕にとってのいちばんの難題は舞台・演劇関連だったかな。
映画やテレビ、本などはなんとかなっても、舞台・小劇場などは大都会でしかまず見ることは無理で、せめてと東京に行った友人からチラシを貰ったりしていた。
雑誌や本も地方ではなかなか手に入りにくいものもあって、たとえば「東京おとなクラブ」などは岐阜市中心部の書店にもなく、岐大生協にあると聞いて手に入れたりした。

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ファンクラブなどにも入っていたりもしたからなあ。
良くも悪くもそれぞれの興味が全てぞろぞろと繋がって、いささか牽強付会的にもなってきたりもしたけど。
たとえば筒井康隆ファンであることを起点とすれば、SFやマンガはもちろん、マニアックな雑誌や映画、ジャズやユング、純文学、動物学など、さらにはアイドル斉藤由貴(「着想の技術」の文庫本解説は斉藤由貴)まで繋がっていき、そこからまた映画やマンガ、あるいは斉藤由貴を起点とすれば…、てな感じに果てしなくマニアの宇宙は拡散していくのだ。
というわけで?、話は飛んで斉藤由貴です。
最近、「お母さん、娘をやめていいですか?」の斉藤由貴の母親役がヤバいという批評があって、ピュアさが反転するとかくも怖いのはたしかに斉藤由貴ならではの感じはありますね。
ただ、その批評のなかで斉藤由貴が文系オタク女子、小泉今日子がサブカル女子とされていたのはどうかなあ。
僕は斉藤由貴はフシギ系オタク女子、小泉今日子がヤンキー系サブカル女子、文系サブカル女子なら薬師丸ひろ子だな。
まあ、それはともかく、オタク向けニュースアプリなどなくても、地域格差があっても、むしろ情報過疎、情報の偏りのなかで独自の道を切り拓いてオタクのバリエーションの豊かさとなって悪くないかもしれない。
画像は「東京おとなクラブ」から「タイムトラベラー」の特集記事だけど、筒井ファンとしてはこうした特集があれば手に入れなければならず、内向的であってもあの手この手と道が切り開かれていく…。
NHK少年ドラマシリーズでは児童文学などにも興味が広がり、久生十蘭も「霧の湖」ではじめて知った。

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夢をカタチに! 究極の肉体表現“バレエ”」アラベスク
『ぼくらはマンガで強くなった〜SPORTS×MANGA〜』は見てしまうのだが、先日はついに「夢をカタチに! 究極の肉体表現“バレエ”」、すなわち「アラベスク」(山岸涼子)ですね。
他のここで取り上げらたマンガもそうだけど、やはり日本のバレエ人口、世界トップ級が輩出するゆえはやはり「アラベスク」にあったか。
テレビ出演のない山岸涼子さんは文章を寄せていて、まだ本格バレエの資料もあまりない時代、ほんとうに綿密に取材をしたのだなあ。
あの美しいグラン・ジュテなどの動きはほんとうにリアルな構図だったのだ。
そして物語性の豊かさも相まって、トップを目指すようなバレエ少女が続々と生まれ、今もまた読み継がれる傑作となった。
僕なんかでもレ・シルフィードなんてのも名前だけはスラスラ出てくるのだよ。

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そして、日本のバレエ水準が格段に上がった今、ふたたび描かれたのが「舞姫 テレプシコーラ」。
いったいどこまで日本のバレエを引き上げるのだ、山岸涼子…、とも思うけど、日本のマンガも変わりつつあるからなあ。
また、バレエ水準は上がっても日本においてバレエではじゅうぶんな活躍の場はなく、多くは海外に出ざるを得ないという。
日本にほんとうの意味でのバレエ文化が根付くように描きつなぐ山岸涼子さんなのでした。
バレエはフィギュアスケート、新体操、シンクロナイズドスイミングなどの原点にもなりますものね。
人間の身体が表現することだできる最も美しいもの、それがバレエです~山岸涼子
それを忠実に描ききろうというのだから、すごい。

ちなみに少女マンガ好きな僕が中でも好きだったのは「アラベスク」、「エースをねらえ!」(山本鈴美香)、そして「真由子の日記」(大和和紀)だったろうか。少女マンガはやっぱりすごいよ。
残りわずかだけど、京都国際マンガミュージアムでは2月5日まで「LOVE♥りぼん♥FUROKU250万乙女集合!りぼんのふろく展」をやっているけど、少数ながら、見たいなあっていう男の子もいるだろうなあ。
案外、坂井修一(東大教授、歌人)、大塚英志(『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代)などの姿もあるかも。