理系・文系を重ねて見る光景は
投稿雑誌「ポンプ」のころ
事情もあって本や雑誌の整理をしているところです。まあ、物持ちがいいというか本は無論、雑誌もけっこう出てきます。
今は壊されてしまったけど、大学生の頃まで住んでいた古い実家が、空き家になっても長い間そのまま残されていたこともあって、ずいぶん、当時のままで僕の部屋もあった。
漫画誌は少年サンデー、マガジン、ジャンプ、少女フレンド、マーガレット、りぼん、セブンティーン、ぱふ、映画誌はスクリーン、ロードショー、映画少年、バラエティ、近代映画、サブカル誌は本の雑誌、面白半分、東京おとなクラブ、ビックリハウス、現代思想、ウイークエンドスーパー、絶体絶命、やんろーど、マスコミひょうろん(のちの噂の真相)など。
まあ、1誌のみなどを入れると「SUB」などなかなか希少なものあったりします。
「ロッキング・オン」から生まれた投稿雑誌「ポンプ」というのもあって、今のネットの隆盛を思わせるような雑誌でしたね。
あのころから自己発信を願ってやまない若者たちがおり、共感する人がいたのだ。
投稿者のなかには名を成す人もいて、マンガ家の岡崎京子さんもそうですね。

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創刊準備号などは切り取った跡があるから、僕も積極的に関わりたかったのだろうなあ。
もう少し僕も外に向くことができれば、あるいは東京に近くに住んでいれば編集部などに遊びに行ったのかもしれないけど、一部の雑誌に投稿するくらいだった。映画も舞台もミニコミも強く興味があったのに。
行くべき人は場所など関わりなく、あまたのハンデさえ越えて行ったのだろう。
やはり行くべき人が行き、成るべき人がなるのだ。
まあ、僕などは岐阜からの定点観測みたいなものだったかも。
NHK「ひるのいこい」の農事通信員ってのがあるけれど、あんな感じかな。
このブログはいわば「ポンプ」の頃以来の自己発信だ。
せめて地方の定点観測員ならでは発信くらいにはなってほしいものだけど。
成ろうと成るまいと、なお行くべきときに行こうと。
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テーマ:本、雑誌 - ジャンル:本・雑誌

語り部の香川京子さん
もう、ちょっと前だけど「サワコの朝」のゲストは女優の香川京子さんでした。
小津安二郎、黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男、今井正など日本映画黄金期に燦然と輝く監督に広く愛された女優さんですね。
五社協定の直前にフリーになって各映画会社の巨匠たちの作品に出演ができた幸運もあるのだろうけれど、もちろん幸運だけで巡り合うものではないからね。
今ではこれだけの巨匠たちを直接知る人も少なく、巨匠たちの人となりを知る語り部としての要望も多いという。
映画ファンとしてはなかなか貴重な話が聞くことが出来て楽しい。
原節子さんが亡くなったとき追悼で映画「東京物語」をやっていて、久しぶりに見た原節子さんはもちろん美しかったけど、香川京子さんもきれいだった。

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でも昔の女優さんて映画のなかだけではなく、日常においても凛としてほんとうに佇まいから言葉づかいまで美しいなあ。
思えば自己流ながら東京語、標準語に憧れて、言葉づかいにずいぶん気を付けるようなったのは映画やテレビドラマの影響。
「なかでも鈴木しづ子各務野幻想譚 第十景 春近し親しくなりて名を呼び合ふ」のエピソードでも書いたようにテレビドラマ「えり子とともに」の影響が大きい。
あの美しい言葉、語感に憧れた僕は東京など一度も住んだことがないのに、妙に方言の取れた大人になってしまった…。
「そんなことねーよ」と声が飛んできそうですが。
高校の修学旅行では宿泊先のホテルの自分たちの部屋から適当に内線を掛けて同じく宿泊中の他校の女子の部屋にフロントを装ってかけるようないたずらもしたけど、ある友人は「こちらフロントやけんど」で、いきなり「あんた誰」と返されてしどろもどろ。
変わって僕が掛けることになったけど、あまりにそつなくこなして業務のように終了。いや、実戦でも使えるのだ。
それはそれで「お前なあ、終わってしまってどうする」と言われてしまうのだが。まあ、それもそうだ。
内にばかり向くことなく、もう少し踏み込むことができたなら、あるいは香川さんほどに気が利いて決断力があれば僕も東京に出て俳優や監督を目指すこともあったかもしれない。
大学も地元で東京にすら行くことはなかったけれど、やっぱり行っていても変わらなかったかもしれない。
「相棒 物理学者と猫」ではなんと「シュレーディンガーの猫」をモチーフにしたものだったけど、幻想はいくつでもあるけれど、ここにある現実はひとつ。
あれ、香川京子さんの話だった。
香川京子さんが映画界の巨匠に恵まれ、愛されたのは単なる幸運ではない、そうじゃないだろうか、シュレーディンガーの猫くん。
本多猪四郎監督の「モスラ」にも出演されています。

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

鈴木しづ子各務野幻想譚を終えて
十八景、終景を経て「鈴木しづ子各務野幻想譚」もついに終了。
関連注釈の「各務原余聞」「柳ヶ瀬映画館余聞」を含めるとそこそこの連作となりました。
当ブログのなかでは習作ながら小説の不定期連載であり、どうかなあとも思いましたが、連載中盤からは拍手も少しずつ増えて、いや励みになりました(拍手ボタンは傾向でも窺えればと去年の11月から付けました)。
終盤の頃にNHK・BSプレミアム「はぶらし 女友だち」が始まり、タイミングよく鈴木しづ子のエピソードが出てきたのはびっくりした。一話だけでなく登場しましたからね。
「夏みかん酸っぱしいまさら純潔など」。うーん、やっぱりなにかよくわからなくてもインパクトはありますね。
また中日新聞の夕刊で「セーラー服の歌人 鳥居」という連載もあり、こちらも鈴木しづ子を取り上げたことがありました。
その連載も大幅加筆されて、「セーラー服の歌人 鳥居 ~拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」として、2月10日刊行、合わせて初の歌集「キリンの子 鳥居歌集」も同時刊行というのもタイミングがよかったのかも。
ちなみに鳥居さんは小中学生の頃、不登校で児童養護施設にあった新聞を辞書を引きながら読み、漢字も覚えたという話題の歌人です。
NHKドラマ「わたしをみつけて」でもやはり孤児だったヒロインは「九九」が出来なかったりしたけれど、諦めず頑張っていれば、誰かがきっと見つけてくれる、抱きしめてくれる。
そして、私たちの人生はこれからも続いていく。ねえ、引越し屋さん。

テーマ:俳句 - ジャンル:小説・文学

柳ヶ瀬映画館余聞
僕は映画館に勤めていた。最初は柳ヶ瀬の封切館で、のちに名鉄新岐阜駅裏の二番館(名画座?)に移った。
週末の土曜日はオールナイト上映が毎回あって、終日賑わった。
このころは名古屋にもまだパルコも高島屋もなかったのだが、なんと岐阜には揃ってあり、映画館も柳ヶ瀬に多くが集中し、西柳ヶ瀬にはキャバレーなどの歓楽街が軒を連ねた。
高校までは岐阜に出るようなことはほとんどなかったけど、大学に通うようになって通学途上にある岐阜や名古屋、あるいは豊橋など立ち寄ることが増え、とりわけ映画が好きだった僕は株主優待券もあったので柳ヶ瀬の映画館によく通った。
東海地方の上映は封切りであっても2本立て興行で、入れ替えもなかったから1日中入り浸ることもあった。
高校時代までは映画館に行かなかったので、テレビの洋画劇場(各局でほぼ毎日のようにあった)をひたすら見て、新作は新聞の封切り広告や記事をスクラップしていたし、映画館に通うようになってチラシやポスターなども集めるようになった。
夕刊には封切り広告が多く、ATGなどマイナーな映画でも広告が打たれていたから、やはり映画の役割は多かったのだろう。
でもまさか、自分が映画館に勤めるようになるとは思っていなかった。
卒業時は就職難で一向に決まらず、映画の帰りの張り紙募集を見て行ったのだった。
映画やテレビや本や漫画などばかり見ていた僕は世間知らずで、面接のとき好きな映画を問われ、いささか恰好をつけて「まぼろしの市街戦」と答え、あとでさんざんにからかわれた。ふつうに「大脱走」とでも言っておけばよかったのだ。
当時の地方の映画館は各館ごとに営業、映写技師など明確に分かれていて、時と場合によっては驚くほどのんびりしていた。
NHK「覆面リサーチ ボス潜入」で見た 今のシネコンの熱心さや忙しさとは量・質ともに雲泥の差があるような。
今は信じられないことだけど、エンドクレジットが始まるとドアが開け放たれ、おばさんが清掃を始めたりもした。
営業、映写技師、テケツ(チケット売り)、売店…、時代でもあり、人次第なのだがずいぶんな環境ではあったと思う。
いくつかエピソードも書いておこう。
「矢沢永吉RUN&RUN」という映画ではオールナイト上映もやった。
映画館の前にはいつもと違ったお兄さん達がオートバイを連ね、場内もタバコの煙ももうもうと揺蕩い、終映の清掃の折には怪しいビニール袋さえ落ちていた。警察官も立ち寄ったけど、早々に帰っていったなあ。
定番のようにあったのが「ビートルズ大会」。
「レット・イット・ビー」「HELP!」「ヤア・ヤア・ヤア」の3本立てが多く、ときには「マジカル・ミステリー・ツアー」というのもあった。
どこでもよく掛けられていたのだろう。
フィルムはつぎはぎだらけのボロボロのも多く、当時よくフィルムが切れてスクリーンが真っ暗になった。
配給会社からの資料で上映時間を組むと、上映時間が5分ほども短く休憩時間がやたら長くなり、音楽映画だというのに画像はもちろん音もそれほどに飛んでいたのだった。それでもクレームはつくことはなかった。
「青い体験」「女体拷問人グレタ」などB級、C級エログロ作品も忘れられない。番組に詰まると定番のようにこれらの作品となるのだが、固く根強いファンがいるのであった。
かたや「鯉のいる村」「心は翼につけて」など教育映画的な作品が多かったのも地方の2番館ならでは。

テーマ:岐阜県 - ジャンル:地域情報

鈴木しづ子各務野幻想譚 終景 好きなものは玻璃薔薇雨駅指春雷
娼婦と呼ばれた俳人の名は鈴木しづ子。
東京に生まれ育ち、結婚、別れを経て岐阜の地で暮らした。
初期の句は若い女性らしい瑞々しい清新な句に満ち、のちに大きく変貌、直截的なまでに女、性を詠んだ。
岐阜柳ヶ瀬のダンスホール、那加の米軍キャンプと流れ、黒人兵と同棲、この地から大量の句を投稿した。

終景
いつの間にか彼女はいなくなり、僕はまた一人になった。誰も先のことはわからない。
懐かしい土地なのに僕はまた異邦人になった。
彼女が思わせぶりに呟いた「どんな恋」をするわけでもなく、あるいは俳句を詠むわけでもなく、僕はただ大人になった。

大学を卒業した僕は、岐阜の地方映画興行会社に就職した。あれからの僕の友だちは一層、テレビや映画になっていた。
全国にも知られた繁華街、岐阜柳ヶ瀬には映画館が一〇館以上あり、僕が就職したのはその中でも洋画・邦画の封切館を多く持ついちばんの興行会社だった。学生時代からよく通っていたなじみの映画館でもあった。
高校を卒業するまで岐阜の町に出ることがあまりなかった僕は映画もテレビで見るだけで、大学生になって初めて映画館で見ることを知った。大学には通うものの、やはり家に籠りがちな僕を心配したのか、父は映画館の優待券を工面し、僕は毎週のように通うようになっていた。
大学を卒業する頃は就職氷河期ともいわれる不況で、成績も目立つところもない僕はどこにも就職が決まらなかった。
映画館でなければそんな勇気は出なかっただろう。僕は半ば強引に飛びこむような形で映画館に職を求めた。
運よく面接まで進み、映画好きだけは認められたのか採用され、僕は邦画の封切館の営業に配属された。
押しかけるように入った映画館のはずなのに、意欲に満ちていたはずなのに、僕は映画が好きなだけで仕事がわからなかった。
映画館の仕事は自ら見つけ出さないといくらでも怠惰になれた。
映画やテレビが好きで、ろくに世間も知らずに生きてきた僕は何も見つけられず、その意味もわからなかった。

空前の大ヒットとなった映画「E・T」は半年も興行が続き、担当館としては日々の観客の対応の忙しさはあっても、次回作の準備などは当面なく、営業としての仕事は一見消えてしまう。半年近くも手を抜くこともできるし、またこの機会に見つけ出すこともすべては自分次第なのだ。映画館とはそういう職場だった。
僕はそれに気づけず、一年も経たず封切館から再上映を専門とする二番館へ担当落ちになった。

旧作の上映を中心とする二番館は新岐阜駅の駅裏にあり、いかにも旧作の上映が相応しい古びた映画館だ。
男性向けのB級映画や、ときには名画座的なものまで上映する社内で唯一の二番館だった。
すでにあまり期待もされないこの二番館もかつて1960年代は週替わり三本立ての人気の名画座で、今は旧作二本立て二週替わりのローテーションとなっている。二週替わりの旧作上映は企画や宣伝が劇場独自で煩雑でも、僕にとっては企画が自由なことは楽しかったし、場所も各館の揃う柳ヶ瀬を離れていて気楽だった。
唯一の上司である支配人もなぜか難しいことも言わず、自由にさせてくれたのだ。
ATG特集、ヌーベルバーグ作品など、名画座的な企画も、SF映画・アニメ映画もほぼ自由だったけど、結果を出すことは難しかった。腰を据えて定着させるほどの余裕も時間もなく、老朽化ですでに閉館を待つばかりだったのだ。
時が止まり、置き去りにされた映画館。
変わり映えしないと思ったラインナップも実は置き去りにされた映画館に相応しいものだったのだろう。 
僕はここにいたかった。ここに留まりたかった。
置き去りにされる残り方もあるのかもしれない。それはやはり作品だ。映画に尽きる。
僕は今に至るまで綴られていた劇場シネガイド、興行収入などを見直し、支配人ともに上映予定を組むようになった。
定番のように上映されてきたビートルズ映画特集もそのひとつだ。
なお根強いビートルズファンがいて、「レット・イット・ビー」「HELP!」「ヤア・ヤア・ヤア」の三本立てはこんな二番館の上映でも、こんなフィルムでもファンが足を運んでくれた。こんなフィルムというのは、たぶんどこの二番館でもよく掛けられていたのだろう。
フィルムはつぎはぎだらけで、フィルムが切れてスクリーンが真っ暗になることもたびたびだった。
「ブルース・リー」「ヒチコック」「マカロニ・ウエスタン」「ミュージカル」「戦争映画」など封切り映画も含めて予算など制限もあるなかで様々な予定が組まれた。
結局、いちばん多くを上映したのはやはり今まで通りのいわゆるB級エログロ映画となった。成人映画はここではできなかったから、エロといっても上映できるのはソフトな「青い体験」や「エマニエル夫人」などで、グロは「残酷大陸」のような秘境ものだ。あるいは「モア」のような破滅的な幻想か。
置き去りの映画館はより場末となり、そんな安楽な自由の中にまた埋もれつつある頃。

桃井かおり主演の「もう頬づえはつかない」は久しぶりに封切り上映する話題作だった。
若い女性で場内が埋まるというのは、この映画館では初めての経験だ。
三周目ともなるとさすがに人も少なくなり、僕はようやくゆっくり映画を最後部の座席で見ていた。
桃井かおりの煙草の吸い方がかっこよくて、ここだけは何度も見ている。

「かっこいいわね、桃井かおり」
ささやきかけるような声に僕は後ろを振り返った。。
僕の後ろには年月を経てもなお変わることのない、あの女がいた。煙草をくわえている。
「煙草かっこいいでしょう?」
「うん」
女はゆっくり詠んだ。
「蟻の体にジュツと当てたる煙草の火」
初めて会った時に女が詠んだ句だ。
彼女は煙草の灰をやんわり落とし、ゆっくりと座席シートのビニールカバーに押し付けた。
焼け焦げた匂いがして煙草を離すと黒く穴が空いている。
「だめです、こんなことをしては。事務所に来てもらいますよ」
彼女は笑ってうなづく。
「変わらず、標準語なのね」
今日の事務所は誰もいない。

「岐阜にいたんだ」
「あら、注意するんじゃないの?」
「順番です、答えてください」
「そうね、柳ヶ瀬にいたわ」
彼女は僕を見つめた。
「あなた、西柳ヶ瀬にも来るでしょう。ああ、あなただって見ていたわ」
西柳ヶ瀬は映画館街とは道を一本隔てたバーやキャバレー、ダンスホール、ストリップ劇場、成人映画館、飲み屋などが立ち並ぶ大人のきらびやかな歓楽街だ。
古参の映写技師の言葉を借りれば、「柳ヶ瀬は飲むか観るか」の町なのだ。
僕は映画協会の連絡等で西柳ヶ瀬の映画館に行くこともあったから、通るたびにもの珍しげによそ見しながら自転車で駆け抜けていたのを見られることもあったのだろう。
「また会えてよかった、あなたはどんな恋をしたの?」
彼女も変わらず、からかうように聞く。
「何もなかった。あれから僕はまたひとりになった」
「ダメね、俳句は続けているの?」
「詠んでない」
「わたしも詠んでいない、いろいろあったのよ」
彼女はまたやんわりと煙草の灰を落とすと、僕に手渡した。
「わたし、岐阜を出るわ、お別れに来たの、前はお別れもしなかったから」
「どうして、いなくなったの」
僕はおそるおそる聞いた。
「あなた、わかってるでしょう?わたしはあなたが好きだったのよ」
(そうだろうか?)
彼女は続けた。
「あなたは孤独で暗いものを抱えていたけど、まだ子供で、それは夢想に過ぎなくて、いい子だった。私は蟻を殺すような現実にいたのよ」
告白だった。
「僕も好きだった」
「そうね、少年少女の恋だった。ちがう句が詠めたのかもしれない」
懐かしく思い出すように彼女は言った。

「これでほんとうにお別れね。あなたはもう頬づえをつくのはおやめなさい。先のことは誰もわからないのだから」
(そうだ、先のことは誰もわからない。僕もあなたも)
「わかってるけど」
「わかってるけど、なに?」
そう、いつも彼女は時間をくれなかった。
「でも、椅子のビニールカバーに煙草の火を当てるのはだめです」
「私も見逃してあげたでしょう、放火犯」
「そうか」
「そうよ」
「また会うことはできますか?」
僕たちは顔を見合わせた。
「先のことは誰もわからない」

〈かの映画G市にきたる百日紅〉

彼女は事務所を出ると、うす暗い劇場の扉を大きく開け、光のなかに消えて行く。
(あの告白はほんとうなのだろか?)
(また、なぜ今だったのだろう?)

〈椅子の背にジュツと当てたる煙草の火〉

もう一度、彼女は何かを殺したのだろうか。それは身代わりだったのだろうか?
それとも彼女自身を殺したのだろうか?
いつまでも頬づえをついているような僕を殺しに来たのだろうか?
僕の手には彼女から取り上げた煙草がわずかに煙を上げている。
僕はあの白い家で吸った以来の、煙草をゆっくり吸った。

ほどなく僕の勤めていた二番館は閉館となり、僕は退社した。
明日のことはわからない。僕はやはり好きなことをしよう。詠んでみよう。書いてみよう。自由に。

〈僕の背にジュツと当てたる煙草の火〉

娼婦と呼ばれた俳人がいた、名は鈴木しづ子、今生きていれば九七歳。

《好きなものは玻璃薔薇雨駅指春雷》

誰も先のことはわからない。誰も今を知る者はいない。
米大統領選の「遠い空の向こうに」ある科学
「そこまで言って委員会」に外国人タレントのフィフィが久しぶりに出ていて、アメリカの大統領選のトランプ候補について、だいたいアメリカの田舎では珍しくもなく「あんな感じ」らしい。
アメリカ南部に住んだ経験のあるフィフィは都市部より多くの人間が住むカントリーサイドでは、排外主義的な思想の持ち主が多いそうで、トランプ氏はそうした声に沿った発言を繰り返しているだけなのだという。
田舎では娯楽がなく、選挙かプロレス、大統領選は4年に1度のお祭りみたいなようなもので、熱くなったり少し狂乱に過ぎたりもするけれど、とすればいずれ飽き、日常に帰り、穏当なところに落ち着くのだ、たぶん。
しかし、アメリカの田舎の何もない、とりわけ若者の閉塞感は想像以上なのかもしれない。

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僕の好きな映画に「遠い空の向こうに」(世界初の人工衛星スプートニクが空に描く美しい軌跡を見て、すっかりロケットの魅力に取りつかれてしまう少年達の物語)があるけれど、この映画で少し驚いたのはアメリカ南部の田舎(炭鉱の町だった)の閉塞感、この地の少年たちが夢見る都会に出るためには、アメフトのトップ選手になって大学の奨学生になるくらいしかチャンスはないらしいこと。
主人公の少年の兄はアメフトの有力選手で奨学金も決まり希望の星だったけれど、主人公の少年は父親と同様に炭鉱夫になる未来しかなかった。
それでも少年は人工衛星スプートニクに感動し、少数の友人たちと周囲から奇異の目で見られながらもロケットに夢中になる。
そして、ついに全米科学コンクールでグランプリを得てチャンスをつかみ取る…。
スプートニクの時代だからずいぶん前のことではあるけれど、アメリカの南部の保守というのはそう変わっていないのかもしれないし、別の閉塞感が生まれているのかもしれない。
どこの国でもある、良い悪いということでもなく、アメリカのひとつの形なのだろう。
まあ、国内旅行もろくにせず、実際は見たことも聞いたこともない僕が言うのもなんですけどね。
ちなみに「遠い空の向こうに」の原題「October Sky」は「Rocket Boys」のアナグラム。
10月の空ではないけど、2月の空にX線天文衛星「ASTRO-H」を搭載したH-IIAロケット30号機が打ち上がり、X線天文衛星「ASTRO-H」(ひとみ)はブラックホールなどの謎に迫る。
僕も少年の頃、内之浦から打ち上げられるロケットが大好きだった。

テーマ:洋画 - ジャンル:映画

「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」だから「わたしを離さないで」
変わらず映画やドラマ好きなのだけど(さすがにマンガやアニメは減った)、もはや最近は視聴率とはまったく関係なくなったなあ。
録画を含めてほぼドラマは見ているのだが、好きな「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」「わたしを離さないで」「家族ノカタチ」など軒並み低迷中らしいのだ。
「はぶらし」や「逃げる女」は枠的に難しいかもしれないけど(こちらも良作です)、「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」などは社会派胸キュンドラマともいえるもので、並び立つはずもないようなテーマ性を両立させる離れ業ですよ。
厳しい都会にさらされても練君の紡ぎだす言葉はそのまま詩のようで、彼のピュアな目にはすべてそのように見えるのだろうなあと。
思いのままに語りこぼれる言葉が詩になってしまう。
同じ風景でも人によって、時代によって、心の有様によって、まるで違うように見えるのだ。

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「わたしを離さないで」も暗く重いテーマながらその世界を幼少期から丁寧に描いて、諦観ともいえる心が制限された青春のなかで形成される様子が怖ろしくも切ない。それでもほの見える外の世界や、留めることができない心の揺らぎ。
しかし、外はゴキブリのような憐みは持っても、あるいはオリジナルにシンクロしたりして体制の揺らぎはないのかしないのか、来宮(ヒガンバナ)。
「家族ノカタチ」も初めはあまりの騒がしさにどうかと思ったけど、芸達者が揃うと病み付きになるというか、なにか「最後から二番目の恋」みたいな喧騒・饒舌さが家族を再生する感じですね。
「お義父さんと呼ばせて」「フラジャイル」「ナオミとカナコ」「怪盗山猫」「警視庁ゼロ係」なども、いずれも楽しいんだけどなあ。
さあ、みんな、人の目など気にせずに「真田丸」とともに乗り込んで。

テーマ:テレビドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

昭和なスミカスミレ
この秘密は誰にも言えない…桐谷美玲、65歳。異色のヒロイン登場!前代未聞の45歳 若返りラブストーリー!!
というテレ朝ドラマ「スミカスミレ」。
やはり人間は誰もが後悔を繰り返すものなのだろうなあ。
時を戻る、あるいは入れ替わりなどで自分の青春をやり直す、振り返るというのはもう永遠のテーマのように小説、マンガ、映画、ドラマでそれこそ繰り返しありますからね。
SFの設定を借りなくても現実でもクラス替え、進学など、それぞれ環境が変わるたび少しは誰しも考えたりするのは、今、この時からでもやり直したいと思うからだけど、その程度の現実ではなかなか変えることができない。
だからその思いは想像の物語となり、そのチャンスは階段から落ちたり、ラベンダーの香りだったり、写真が風に飛ばされたり、魔女が現れたり様々だけど、「スミカスミレ」は古典ともいえる化け猫でありました。

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屏風に封じ込められた化け猫が処女の生血で封印が解かれるのは「少年ジェット」の「狂った画家編」(少女の全身像の肖像画を描く画家は、その完成には少女の真紅の唇を本物の血で描かなければならないと狂気の画家は考えます。はたして、その血は…。そしていよいよ完成された怨念の肖像画の少女は夜、絵から抜け出してさまよい歩く)や「コゼットの肖像」のようなゴシックホラーか、または映画「処女の生血」のアンディ・ウォーホルなのか。
ずうとるび、どっこいしょ、帳面と昭和ネタ満載だけど、帳面は行き過ぎでやっぱりノートじゃないかな。
ペギー葉山さんの歌でもノートだし。
洋服も「三丁目の夕日」の女の子のようで可愛いけど、ちょっと遡りすぎのような気がする。
松坂慶子さんが「奥さまは18歳」に出ていた頃のはずだけど、やっぱりもっと大人の感じだったなあ。

テーマ:テレビドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

「愛してる」の科学 壁ドンは?
ラブラブのカップルをよく「熱~い」と表現するが、本当に「熱い」のだろうか…。大手家電メーカーのパナソニックが、暦の上で最も寒いとされる21日の「大寒」に合わせて、同社の「ふだんプレミアム」シリーズのエアコンを題材に、愛を言葉で伝えることによって人の体が暖まるのかどうかを検証した実験動画(高性能なサーモパイル赤外線センサーを使用)を公開した。(産経新聞)

それによれば被験者の体温(感情の影響が出やすいとされる鼻を中心とした付近の表面温度)の変化は最低でも+0.3℃、最高では+1.2℃と、夫と妻、母と娘など実際の6家族の平均で約0.8℃も体温が上昇。愛の言葉は心だけでなく体も暖めることが実証されたという。恋人同士であればなおさらでありましょうか。

すでに有名な「吊り橋理論」は渓谷に架かる吊り橋で、向こう岸から渡って来る男性に対し、橋の中央で待ち受ける女性が恋に陥りやすいというもので、物理的な揺れが生理的な興奮となり、そのドキドキ感が恋愛感情に繋がるというか、錯誤する。
揺れる橋での緊張感を共有したことも恋愛感情に発展する場合があるというのだ。
揺れない吊り橋での対比実験(こちらは効果がみられない)もあって、一応実証的成果として認められているという。
「壁ドン」も物理的な刺激がもたらすから生理的な興奮となり、やはりそのドキドキ感が恋愛感情に繋がるというか、錯誤するということになろうかと思うけど、かように「熱くなる」ことをさらに科学的に実証できるだろうか。

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壁ドンも吊り橋も物理的な状況が生み出す胸キュンだ。
言葉はさわやかな胸キュンだけど、だからあまた憧れるように胸キュンという言葉が使われるけど、かたや物理的作用でもある胸キュンもまた生理・物理現象を伴うのかもしれない。濡れる・もっこりのような。
壁ドンも言葉の裏に秘めやかな性が隠されてると思うと、うかうかとは使えない!?
恋に科学は似あわないのか。
ちなみに物理学的な「ぬれ」とは「雨がガラスに当たると水玉としてはじかれるのに、コンクリートに落ちると広がってぬれる。このように、ぬれるとは基板の上で液体がさまざまに振る舞う現象です。ものがぬれるという現象はとても身近でありながら謎に満ち、科学の最前線のテーマです」(京都大学 八尾誠教授)というものらしいよ。
さらには「通常、高分子や液晶はマクロな物理理論で、半導体の特性や超伝導は量子力学で説明され、別々の原理で動いている。ぬれは両者を橋渡する興味深いテーマ」であり、「生物でもぬれはよく見られ、生体反応の鍵を握っている可能性があります」
すこしエロくて?楽しげだけど、さっぱりわからんなあ。
「臨界点ぬれ現象」「脱ぬれ現象」なんて勘違いして研究に没頭する人もいるかもしれない。

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

バレンタインなんか怖くない
もうすぐバレンタインデーだけど、クリスマスと同様にその日を苦々しく思っている人も多いに違いない。
貰えるかもらえないか、渡せるか渡せないかでどきどきするのはいいけど、それで評価が決まってしまうような風潮はなあ。
そんなことはないと思ってもモテない男の悲しさ、ポジティブに受け止めることはできない。
妄想青春小説?の傑作「太陽の塔」(森見登見彦著)ではモテない男の異様な情けなさと美しさ、若者らしいイベントなどすべてに女性に縁のないみじめさが、限りなくリアルで切なく描かれます。
まれに登場する女性がたまらなく魅力的なのは、異性への絶対的無縁さだけが生み出せる憧れ・妄想の力で、縁がないからこそ、女性を夢のように描けるのだ。
女性には性欲なんてあるはずもなく、それに比べてときおりの妄想になんて俺は汚いんだと自嘲する日々…。

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学生時代、冬休みに友人たちと柄にもなくスキーに行ったのだが、大雪となりリフトも止まり、ほぼ旅館に閉じ込められた。
小さな旅館でほかには二人の若い女性客がいるだけで、なんとはなしに彼女たちも交えて卓球をしたりして遊んだ。
こんな偶然がなければ巡り合わなかっただろう、奇跡。帰りも途中までは一緒に列車に並んで乗ったのだ。
数か月後、その一人の彼女から岐阜に行くので会いませんかと連絡があり、喜んだ僕は一緒に出迎えてあげようと友人にも連絡を取った。
その日は三人で楽しく遊んだはずだけど、少し名残惜しそうな彼女を東京に送り出した後、友人の彼が言った。
「彼女、君に会いに来たのじゃないか」
「え?」

僕も友人もことあるごとに彼女ができることを欲してきたけど、いざチャンスが来ても気づきもしない。
もう連絡が来ることはなく、僕はまた妄想のなかにもぐりこんでしまった。
妄想は現実のシュミレーションにはならず、「われわれの日常の90%は頭の中で起こっている」。

テーマ:恋愛・出会い - ジャンル:恋愛

各務原余聞 蓮如さま
実家のある町でいちばんの祭りが「蓮如さま」(蓮如祭り)だ。
子供のころは広く近在からも多くの人が集まり、お化け屋敷やタコ娘などの出し物、綿菓子、金魚すくい、輪投げ、射的、お面、ハッカ、ういろう、タコ焼き、お好み焼き、瀬戸物、植木などが勢ぞろいし、人も通れぬほどだったのだが、今は見る影もなく、すっかり寂れてしまった。
ガマの油、バナナのたたき売りなど口上なども(「男はつらいよ」の寄ってらっしゃい見てらっしゃい、見上げたもんだよ屋根屋のフンドシなんてやつですね)あのころの蓮如様ではまだ見かけた。
蛇使いもいて、けっこう覚えているのは子供たちに向かって、
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、しゃがんじゃいけないよ。蛇は暗く湿ったところが好きだからね」
なんて、口上をしていて、あとから思い至れば非日常である祭りや盆踊りはやはりエロい。
子供、大人、男、女関わりなく非日常であればこその祭りなのだ。

テーマ:岐阜県 - ジャンル:地域情報

鈴木しづ子各務野幻想譚第十八景 コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ
娼婦と呼ばれた俳人の名は鈴木しづ子。
東京に生まれ育ち、結婚、別れを経て岐阜の地で暮らした。
初期の句は若い女性らしい瑞々しい清新な句に満ち、のちに大きく変貌、直截的なまでに女、性を詠んだ。
岐阜柳ヶ瀬のダンスホール、那加の米軍キャンプと流れ、黒人兵と同棲、この地から大量の句を投稿した。

第十八景
岐阜の春の田んぼは一面のれんげそうだ。秋はコスモス。畑にも道端や河原にもいたるところに咲いている。
れんげそうの花はミツバチが蜂蜜を作り、その根は土の養分となる春らしい生に溢れた花だ。
コスモスははかなげだけど、旺盛な繁殖力をみればやはり生に溢れているのだろう。
今も風に吹かれ、しなやかに揺れて風をやり過ごしている。
「この辺りはコスモスが多いわね、岐阜の花なのかしら?」
「ちがうよ、岐阜の花は春のれんげそうだよ。ちょうど咲く頃にここでは蓮如様という祭りもあるんだ」
「〈手に取るなやはり野に置け蓮華草〉ね」
「知っているよ、滝野瓢水の句だ。れんげそうの句だから覚えている。摘み取ってはだめなんだ」
「でもまあ、手に取っても取らなくてもどっちにしても男の理屈ね」
僕は少し考えて詠んだ。
「〈風に揺れひとり野に咲け蓮華草〉でどうかな?」
「優しいね、あなたは。ドサリと花弁が落ちる椿が好きで、でも蓮華は見るだけなのね」
彼女は微笑んだ。
「でも優しいだけじゃだめなんだよ。そうだ、コスモスはわたしが詠んであげよう」

《コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ》
少女マンガと歌謡曲とミセス・ロビンソン
紅白歌合戦で過去歌われた楽曲は3000強におよぶらしく、その分析によれば使用される歌詞のワードもやはり変遷し、とりわけ東日本大震災以来はワードが大きく変わったという。
「今」「未来」「明日」などかなり明確な明日への希望が言葉として綴られる。
もちろん、それ以前にも変遷はあって、その要因の一つは歌詞の書き手が、男の職業作詞家から、シンガーソングライターに変わっていったこと、さらには女性を歌うものにしろ、男が作詞していたものから、女性が書く時代になったことが大きいらしい。
森高千里が出てきたときは職業作詞家では絶対書けないと思ったし、ユーミンから西野カナに至るまでやはり女性にしか書けないような気がする。
少女漫画もかつてはそうで、手塚治虫やちばてつやなど男性マンガ家が書いた時代もあった。
しかし、女性自身が描く時代となってもう男性マンガ家にはもうなかなか手に届かない世界になりましたね。
僕が少女マンガを読んでいた頃はそれでも巴里夫や鈴原研一郎がいて、その後も和田慎二、柴田昌弘、弓月光、そして魔夜峰央もいたけど、もう当時主流を占めようとしていた各誌少女マンガ的感性とは少し違っていたのだと思う。

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たとえば、この頃(1970年)に描かれた大和和紀「真由子の日記」は思春期の少女の感性を私小説的に描き、絵も洗練され、カット割りも斬新で、モノローグで語られる少女の感性は絵やカットとマッチした。
映画「卒業」でヒットしたサイモン & ガーファンクル「ミセス・ロビンソン」の詩も効果的に入れていて、等身大の少女の日常であっても想定された読者層のずいぶん上を行っていたのではないだろうか。
そして少女たちはじゅうぶんに読み込む力を持っていたのだ。 恐るべし。

テーマ:少女漫画 - ジャンル:アニメ・コミック

黒崎くんの言いなりになんてならない 小松菜奈
年末に日テレ深夜で2話連続『黒崎くんの言いなりになんてならない』をやっていたけど、これが上出来。
少女マンガ原作の胸キュンドラマは珍しくないけど、マンガのテイストのままの映像化は至難で、どう料理するかが問われます。
いや、真正面から挑戦してこれほどうまくはまるとは。
黒悪魔と恐れられる黒崎くんの中島健人、憧れの白王子こと白河くん千葉雄大、そして地味でいじめられっ子を払拭すべく高校デビューにかけるドジッ子ヒロイン由宇の小松菜奈という、主演3人がまず抜群にいい。
もちろん、脚本も演出もいいけど、役者がはまらないと空回りしてしまうからね。

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小松菜奈は中島哲也監督の映画『渇き。』で衝撃的なデビューを飾った子だけど、こういう役も見事で、これなかなかできないよ、きっと。
さて、続きは映画でということらしく、2月27日公開。やれ2月になったなあ。
由宇ちゃんじゃないけど、黒崎くんの、じゃなかった日テレの言いなりになんてならない。
って思うけど、見に行ってしまいそうです。
石坂さんはテレ東Pの言いなりなんてならないってことだったのだろうか。
臥薪嘗胆、なお黙して語らず。

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

冬の旅 倒木にて
先日の大雪では長野県内などで雨や雪の影響で倒れた木が道路をふさぎ、温泉旅館の利用客や従業員が孤立と大ニュースになっていたけど、当事者でもないから大きな声では言えないものの、あれほどのニュースになるものかなあ。
雪による倒木で道を塞いだだけで、ほかにもところによっては停電や断水もあったみたいだけど、これも冬の旅の醍醐味と思って密かに楽しんで、「なんですぐ救助に来るかなあ」とがっかりした人もいるのではないか。
むろん、病気など火急の場合もあるし、そんな醍醐味を思いもしない人のほうがずっと多いだろうけれど。
でも、常識的には明確に一時的な孤立であって、日常にはそれこそもっと孤立の危険があまたあるのに。
こちらは何かあったとしても事後に、そしておそらくささやかにしか報道されないのにね。
冬の旅の密かな物語・醍醐味…
灯りはキャンドルとそれに照らされた雪明りのみ、暖房も使えない二人は身体を寄せ合い暖めあう。
会話のなかった家族はたった一つのキャンドルを囲み、ぼそぼそと会話がぎこちなくも始まる。
不倫で訪れた二人はよっぴて、この緊急事態の対応を話し合う。
それぞれのキャンドル、雪明りのもとに新しいドラマが生まれている。
そして、思いつめた一人の女はそれぞれのドラマを目の当たりにして自らの独りよがりに気づき、人生を取り戻す…
なんてドラマもあるかしらん。

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そして、その場には「名探偵」や「名刑事」が立ち会っていたりするし、下手をする?と「雪の女王」だったりもします。
まあどうせなら「ロマンスの神様」のほうがいいですけど。
嵐は物語をドラマチックにするなあ。
さて、今日ですべて孤立状態は解消されたようで何よりです。