理系・文系を重ねて見る光景は
芸術は爆発だ マグマが迸ってこそ
人気アニメキャラクター「のうりん」を使ったスタンプラリーのポスターがインターネット上で「セクハラではないか」と批判を受けて、岐阜県美濃加茂市観光協会は別の絵柄に差し替えてしまったけれど、いよいよ神経質になってきたなあ。
三重県の「碧志摩(あおしま)メグ」もやはり、胸が強調され「女性蔑視で海女への侮辱」という声も上がって、結局、公認は撤回された。
こういうムードはすでに密かに大きく広がっているらしく、岐阜県が2017年から開催する芸術分野の県の公募展の名称も当初予定されていた「MAGUMA(マグマ)」から「Art Award IN THE CUBE」になった。
企画検討の会議で「全国的に火山活動が活発で、不快に感じる人がいるかもしれない」という意見が出たためという。
「こっちは観光でもない芸術だよ、感性を揺さぶるようなものだよ、MAGUMA、いいじゃないですか。岡本太郎も喜びそうじゃないですか」。MAGUMAぐらいで揺らいでどうすると思うけど、ちがうのだろうか。

「芸術」というものが、たとえば家族生活を犠牲にしても、あるいは戦争のさなかにでもやり続けなければならないものなのか。「芸術」に確かな意味、自分がやっていることはほんとうに「芸術」なのか。自分が身を賭して取り組んでいるものについて、そういうふうに問い続け、それが「芸術」として存在しうるのかしえないのかぎりぎりの稜線に立ち続けるのでなければ「芸術家」ではない。そしてそこに同時に、<個>としてのみずからの存在根拠への問いをも巻き込んでいる。だから、「芸術家」という公的な職業名で呼ばれることにどこか疚しさを感じる…。
職業は私的なものではない。公的といえば言い過ぎになるかもしれないが、他人のために身を砕くという面を外すことは出来ない。ひるがえって、「芸術家」はかならずしも他人のためになること、他人を歓ばせることをするわけではない。ときには他人が眼を背けたくなるものさえ創る。他者を歓ばすために「芸術」という訳の分からないものと格闘しているわけではないからである。この点で、タレントやエンタテーナーとは違う(鷲田清一 元大阪大学学長)。

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岐阜県は養老町の養老公園内に美術家・建築家の荒川修作「養老天命反転地」も作ったのになあ。
起伏に富んだ地面が不思議な感覚に構成されていて(あえて、バランスを崩すように構成されている)、開園当時、作品内で滑って怪我をした人が多数出て、柵を作るなど対策も練られたが、制作した荒川修作は意外に少ないなあと言って平気だったという。
宮崎駿とも親交があって、「養老天命反転地」を訪ねたおりには…

宮崎「予想したように面白くて,予想した通りチャチだった(笑)」
荒川「チャチなのは予算がなかったんだ!(憤然として)」
町長「なんだと、好き勝手にやりやがって!(激怒して)」(まあ、町長の部分は僕の創作です)
というわけで、ここには柵等チャチな危険防止策はない。

芸術を支援しようと思うならせめてこれくらいの気構えを。
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賽銭泥から考える
お正月も開けてもう2月にもなろうとするのだけど、初詣あとのカマス開きのニュースとともにあったのが賽銭泥のニュース。
言い訳がリストラで年越しのお金がなく、また強盗するようなこともできず…など、勝手な理由ではあるのだが、普通の窃盗?よりは罪の意識というかハードルが低そうな感じはします。
子供などはいたずら半分に賽銭箱を覗いたり、零れ落ちた賽銭は拾ったりもする!?
なぜいささか低いように感じられるのかと言えば、なんとなく所有権が曖昧な気がしてしまうだろうか。
もちろん曖昧でもなんでもなく、その社寺の所有なのだが、善男善女の感謝や願い事の気持ちとしてお金が投げ入れられ、それは神様や仏様に捧げられたものであり、善男善女にとっては必ずしも社寺にあげたつもりはない、あるいは投げ入れた瞬間に感謝や願い事の意味は果たされ、完了し、賽銭はその時点で神様や仏様のものでもなく社寺・人間のものでもないような無機物に返ったような気がするからだろうか。まあ、気のせいですが。

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さて、神様や仏様と一緒にしたらそれこそ怒られそうなのだが、廃棄品が産廃業者によって横流しされた事件の当事者の罪の意識のなさ加減も相当で、その最たるものは「みのりフーズ」実質経営者の「昔は腐ったご飯も洗って食べた」「おかしなニオイがしてもこどもの頃は平気で食ってた人間ですから。何にも思わんけどね」 発言。
そうかも知らんけど、だからなんだ。
あるいは消費者側でも、たとえば情報番組「とくダネ!」で小倉智昭さんは「それなりの理由があって廃棄されるんだろうと思いますが」と前置きしながら、「シリアでね、1週間食べものがなくて餓死している子どもたちがいる一方で、こんな風に廃棄されている食品もあるってなんかねぇ」とコメントしたようになにか吹っ切れないところもある(もっとも批判が多く出たらしい)。
実際、世界各地の難民に横流ししていたらどうだったのだろうという気はする。
前にも書いたとおり、江戸後期の儒学者林述斉は「小善は大悪に似て、大善は非情に似たり。目前の気受けなど気にせず、大善実現のために非情に徹せよ」説いたけど、「大悪は小善に似て、大善は非情に似たり」なのかもしれない。

テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

各務原余聞 池にかかる木の橋
僕の家は堤防のすぐ際にあった。
堤防の向こうには境川、さらに途切れた堤防、池があり、さらに鬱蒼とした雑木林を抜けると木曽川に出た。
子供の頃、台風の時だったろうか。
一度だけ堤防の向こうのそれらを全部吞み込み、木曽川の対岸の愛知県側まで水の流れに埋まってしまったことがあった。
家の土間からは水がぶくぶく湧き、サンダルなどが浮いていた記憶があるから氾濫すれすれだったのだろう。
そんなときでも堤防に上り、初めて見る圧倒する大河に見とれた。風に飛ばされそうにもなった。
この時ではないが、マント替わりの風呂敷を付けてスーパーマンごっこもやった。
水が引くとあちこちに大きな水たまりができていて魚を捕りに行った。
池には可愛い木の橋がかかっていてたびたび流された。池にも鯉や鮒などがいて、でかいカラス貝もいた。
この橋から真下を覗き込むと、さざ波の波を目が、身体が追ってしまい、何度も池に落ちそうになった。
怖いながら面白くて繰り返し覗き込んだ。
水が、波が人を引きずり込むということはあるのだと思う。
今でもエスカレーターの天井部分にミラーがあると映った自分を追ってひっくり返りそうになるのは、あの池のせいだ。
やはり、森や池は子供たちにとって自然と親しむ冒険の場所であり、またそこかしこに冥界も開いている。
鈴木しづ子各務野幻想譚第十七景 そだちつつ台風ちかよりつつあると
娼婦と呼ばれた俳人の名は鈴木しづ子。
東京に生まれ育ち、結婚、別れを経て岐阜の地で暮らした。
初期の句は若い女性らしい瑞々しい清新な句に満ち、のちに大きく変貌、直截的なまでに女、性を詠んだ。
岐阜柳ヶ瀬のダンスホール、那加の米軍キャンプと流れ、黒人兵と同棲、この地から大量の句を投稿した。

第十七景
彼女の白い家にはラジオがあって、外国語放送が流れていた。
僕は短波の気象情報が好きで天気図も描いたりした。
南大東島なんて気象情報を聞いてなければ知らなかっただろう。
「ねえ、沖縄に大きな台風が来ているよ」
「この様子だともっと発達して、こっちのほうに来るんじゃないかな」
「あなたは台風とか、大雪とか、天気図も好きだものね」
「あなたの家は堤防の際でしょう、台風で決壊したらたいへんよ」
「決壊しなくても危ないんだよ、前の台風の時はね、境川も木曽川も間の雑木林も水でつながって、堤防の際近く溢れそうなまでに来たんだ。土間からは湧き水のように水がぶくぶくと吹いて、すごかったんだよ」
「それでも堤防に上って見に行ったのね」
「海のようにはるかに広がってすごかった。風も強くて這いつくばって見たんだ」
「あぶないなあ、よく生き延びてきたわね、もう台風遊びは天気図の中だけにしておきなさい」
「その台風は大きくなるの、こっちに来るの?」
「うん、たぶん」

「ねえ」すこし経って彼女は話しかける。
「その台風、すごく大きくなってこっちに来たら、マントつけて飛んでみようか」
「もう、やったよ。飛べないんだよ」
「ふたりなら、どうかな」
「もう台風遊びは天気図の中だけにしておきなさいって言ったのに」
「でも台風って、どきどきするね」
「うん」

《そだちつつ台風ちかよりつつあると》

コウノドリ
前シーズンのテレビドラマ「コウノドリ」が丁寧なドラマ作りで好評でした。
出産シーンっていろいろな考え方があるから難しいと思うけど、これほどに丁寧に作られると安心ですね。
もちろん、ドラマでは様々な悲しく切ない障害があったりもするのだけど、その真摯な向き合い方に癒されていくというか。
女性だけでなく男性も出産という奇跡にもう一度きちんと向き合えるような。

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岐阜県議会本会議で「同性愛は異常」とやじを飛ばした自民党の県議は「差別的な意識はなく、誰かを中傷するものではない。同性愛を社会全体が認めて拡大すれば人口減少につながるとの思いから発言した」と説明したけど、こちらはきちんと向き合えていないのではないだろうか。
少子化の要因はさまざまにあるけれど、同性愛がどれほどの影響を与えているというのだろう。
やはりマイノリティに批判の目は向きがちだけど、少子化対策というなら、むしろ、このドラマのように出産の良きことも悪しきことも含めて、きちんと丁寧にその愛おしさを伝えることこそがいちばんなのではないだろうか。
たとえ障害があってもきちんと丁寧に説明し、安心すれば自らも周りの人たちも不安や無理解から少しずつでも解消されていく。
まあ、コウノドリ先生やあの病院のような優しい先生ばかりではないだろうけれど。
それぞれに自らを振り返るような優しいドラマなのでした。
化血研の暴走 文系の煩悶
一般財団法人・化学及および血清療法研究所(化血研、熊本市)が血液製剤などを国の未承認の方法で製造していた問題で、化血研が約20年前から、不正を隠したまま承認を得るための研究を血液製剤の製造部門で進めていたことが関係者の話でわかった。(読売新聞)
さらには化血研が家畜などに使われる動物用のワクチンも未承認の方法で製造していたという。
これを受けて厚生労働省がようやく化学及血清療法研究所に医薬品医療機器法に基づく110日間の業務停止命令を出したけど、これってすべての国民の生命に直接関わるものですごい怖ろしいことだと思うけど、あまたなニュースに紛れて、忘れ去られててしまうのはなあ。

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僕は科学の信奉者であって、科学の拓く素晴らしい未来を信じる者だけど、それでも先に書いた宇宙の妄想のように科学の一面は人間の持つ空間軸、時間軸とかけ離れた次元まで想像を伸ばすから、今を生きる、目先の安全を見過ごす、軽視することがあるかもしれないという危惧はもちます。
江戸後期の儒学者林述斉は「小善は大悪に似て、大善は非情に似たり。目前の気受けなど気にせず、大善実現のために非情に徹せよ」と心構えを説いたらしいけど、偏りすぎたり、あるいは確信犯的に暴走する人もいるのだ。
「似たり」というのも実はなにが小善は大悪に似て、大善は非情に似るのか、よくわからないのが怖い。
「小悪は大善に似て、大悪は有情に似たり」ってことでもあるからなあ。
石油価格はどこまで落ちるか?文系の妄想
米国産原油の輸出を解禁する法案の成立が確実らしく、40年ぶりに輸出が解禁される可能性が高くなった。米国は世界最大の産油国で、輸出が始まると原油価格が一段と下落する可能性があり、くわえてイランの経済制裁も解かれたから、原油価格の下がる要因が目白押し。
また採掘技術の発達により、シェールオイルと呼ばれる原油の産出量も急増しているし、石油輸出国機構(OPEC)も2015年12月4日にウィーンの本部で開いた総会で政治的要因も絡んで減産を見送っている。シェールオイルや産油国のなかには生産コストという問題も抱えるけど、とうとう1月半ばにはニューヨーク原油先物相場は一時、約12年1カ月ぶりに1バレル=30ドルの大台を割り、ピーク時(147ドル)から約8割も下がってしまった。
もともと1970年代には石油の可採年数は約35年とも言われていて、今頃は枯渇していてもおかしくなかったはずだけど、現在はまた可採年数は約40年、50年とも言われている。技術力の進歩が大きいとはいえ、その科学的予見性も知らしめず35年と言っていたというなら、政治的要因に操られていたのだ。声高に叫ぶオオカミ少年がいたのだ。
これからはシェールオイルをはじめメタンハイドレートの新たな化石原料も登場し、またエネルギー革命は太陽光、風力など再生エネルギーに変換をもたらし、地熱・小水力・波力・潮力なども有力となってくる。
原発だって世界的にはまだまだ増えそうだし、となれば化石燃料の消費・比率は間違いなく減少に転ずるにちがいなく、可採年数は止めどなく伸びていく。
さらに科学技術の発展を予見すれば、すでに宇宙航空研究開発機構(JAXA)のマイクロ波による無線電力伝送地上試験は成功し、いよいよ宇宙での太陽光発電も現実味を帯びているのだ。さらなる可能性もぞくぞく出てくるのだろう。
現代・近代の爆発的消費をもたらした地球のそこここで生まれた人口激増による経済発展も未開の地はすでになく、化石燃料の大消費時代も終わるのだろう。
政治的要因などを考えず、単純に今後の需要と供給だけで推論すれば、まだまだ下り、下がってもなお今のうちに売っておけということになるのだ。
石油には大昔の生物の死骸が地下に埋もれて分解、適度な圧力・温度の下で長い時間をかけて油となったと誰もが学校で習った有機起源説ばかりでなく、周期律表で有名なメンデレーフが唱えたという無機起源説もありますしね。

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探査機「カッシーニ」が撮影したタイタン (c)NASA/JPL/Space Science Institute

となれば、地球自体の石油の埋蔵量も、あるいは近未来的には土星の衛星「タイタン」(もちろん、生物はいない)などもメタンの宝庫らしいから、石油などはいよいよ無尽蔵。
地球に未開の地はすでになく人類は宇宙に向かうのだからね(まあ、南極大陸はあるのだけど)。
まあ、文系の僕から言うと宇宙は資源の宝庫、やはり無二なのは地球以外に見つかっていない有機物に始まる多様な生命、生物、生態系であり、そこで育まれた人であって社会であって、また科学であり、文学であり、音楽であり、多様な文化で、愛なのだ。
地球にはたまたま溢れていても、それらはどんなささやかなものであっても宇宙の中ににあってはどれほど貴重なものでかけがえのないものであるのか知るべきなのだ。
来る宇宙時代、地球発のそれらこそ、宇宙の宝物、宇宙の新たな種子になるものだぞ。
ん?、宇宙に思いを馳せすぎるとと考え方の空間軸、時間軸がずいぶんと広がって、いささか論理も怪しくもなりますか。
怪しくなるのは重力波がもたらす歪みなのか、妄想ゆえの歪みなのか。
まあ、どのみち地球上では宇宙論同様にさして関わりないけど!?
石油価格はやっぱり下がる方向にある!?

テーマ:経済ニュース - ジャンル:ニュース

各務原余聞 山の子
僕の町には男の子供たちだけでする「山の子」という山の神を祀る祭りがあった。町内にはいわゆる山はないのだが、木曽川沿いには深い雑木林があり、山と呼んだ。
小さいころは下刈りも行き届いて薪などを集めたけど、オガライトやガスなど新しい燃料が登場し、山にはあまり手が入らなくなり、いつか道も定かでなくなるほど雑草は生い茂り、枝も伸びて道をふさぎ、木漏れ日も落ちぬほど鬱蒼となった。
自然薯を探したり、虫を捕ったり、抜ければ木曽川の河原に出るのでよく遊んだりもしたのだけど。
年末になると「山の子」の祭りがやってきた。

やーまの子 やーまの子の かみそりは よー切―れる かみそりで
でーこも切って 菜も切って えーまに おばばに かしたって エンヤラワイ

いささか意味不明で、すこし怖ろしげな歌を歌いながら町内の各戸を回るのだ。米とかを各戸からもらうのだろうが、もう定かな記憶がない。
子供たちの当番の家に泊まるようなこともあったはずだが、僕の頃はもうなかった。
恒例の深夜の肝試しはまだあり、あの怖ろしい山の暗く深いけもの道のような通って、地蔵を引き返すのだ。上級生が容赦なく脅すのだが、やれようやく脅す番と思ったら肝試しは中止となった。
自殺体もときおりあったりして、もう山に踏み入ることもできなくなるほど山は遠のいた。

テーマ:岐阜県 - ジャンル:地域情報

鈴木しづ子各務野幻想譚 第十六景 秋葵みづをこえたる少女の脚
娼婦と呼ばれた俳人の名は鈴木しづ子。
東京に生まれ育ち、結婚、別れを経て岐阜の地で暮らした。
初期の句は若い女性らしい瑞々しい清新な句に満ち、のちに大きく変貌、直截的なまでに女、性を詠んだ。
岐阜柳ヶ瀬のダンスホール、那加の米軍キャンプと流れ、黒人兵と同棲、この地から大量の句を投稿した。

第十六景
堤防の向こうには境川が流れ、上流には澱粉工場があって、暑く風の溜まるようなときは異臭がした。
さらに境川を越えるとあまり人の手が入らない深い雑木林があり、木曽川にまっすぐ抜ける道も木々の枝に覆われ薄暗くなっている。横に細く抜ける山道はさらに細く、草や木の枝で塞がれそうなほどだ。大人でもまず入らなくなっていた。
それでも子供会の「山の子」の怖ろしい肝試しコースはなぜかここのままだ。各戸を回りながら歌う「山の子」の歌も怖くて、山は怖さの象徴だ。

やーまの子 やーまの子の
かみそりは よー切―れる かみそりで
でーこも切って 菜も切って
えーまに おばばに かしたって
エンヤラワイ

山の神を祀る「山の子」は子供の祭りなのに、習わしも歌も子供たちにとっては意味不明で、なぜか意味を聞くのも憚られた。
そんな不穏な山の神のいる雑木林を抜けるとようやく大きな丸石だらけの河原となり、木曽川に出る。
僕は誰も来ないこの河原が好きでときどき遊びに来ていた。
大雨の後にはところどころに大きな水溜りが出来て魚がいたし、川の様々な流れを見るのも、珍しい石を探すのも飽きなかった。少し遡れば岩盤も露出している。
洪水で流れてきた木が根付くこともあるのか、グミの木や綿の木も見つけた。
枝ぶりのいい木には縄をかけて遊んだりする秘密の場所だ。
話すと当然のように「連れて行って」と彼女は言った。
河原に誰もいなくても、それなりに長い道のりは、誰かに見とがめられるかもしれない。
「二人のところ、見られるって思ったわね、いやなの」
「そんなことはないけど」
「じゃあ、行きましょう」彼女はいつも考える時間をくれない。
彼女は鬱蒼とした雑木林も気にしなかった。歩きながら、怖い「山の子」の話をしても楽しそうに聞くだけだ。
「男の子だけの祭りで女の子が参加できないのは山の神が女の子を嫌うからだよ」と言っても、「きれいな女ならなおさらね、怒ってるわね」と笑うだけで、「山の子」の歌さえ、歌い始めた。
僕たちは誰にも会うことなく河原に出た。

「ほんとだ。誰もいない」
「うん」
「あなた、ここもいつもひとりなの?」
「誰も来たがらないよ。自由だし」
「自由ってことは一人ぼっちなんだよ」
「だから、君はあたしなんかといるんだよ、よそものだからね、わたしは」
彼女は靴を脱いで裸足になると縄のぶら下がっている木に軽々と飛びつき男の子のようにするすると登り、大きな枝に腰をかけた。
「いい景色だよ、あなたもいらっしゃい」
「いいよ、僕は」
「そうだね、君は一人ぼっちが好きなんだものね」
木の根元のそばには大きな水溜りがあり、少女のような足が水面に揺れている。

《秋葵みづをこえたる少女の脚》
「はぶらし 女友だち」に鈴木しづ子 夏みかん酸っぱしいまさら純潔など
NHK・BSプレミアム「はぶらし 女友だち」が怖い。
恐る恐る見ていたら、鈴木しづ子の名前が出てきて「夏みかん酸っぱしいまさら純潔など」の句が詠まれてびっくりした。
なにしろ、いちおう「鈴木しづ子 各務野幻想譚」をこのブログで不定期連載中なのだ。
「夏みかん酸っぱしいまさら純潔など」は鈴木しづ子の有名な句ではあるけれど、この怖いドラマにこれを使いますかと思ったら、ちゃんと原作があった。近藤史恵さんですね。

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青春小説「サクリファイス」の評判が高かったけど、実はまだ読んだことがない。やはり小説家はかようにさりげなく効果的に使うのだなあ。
まあ、僕のは素人の習作の幻想譚です。情景というか心象風景は重なり合うのですが。
少し前にも中日新聞の夕刊で「セーラー服の歌人 鳥居」という連載のなかで、鈴木しづ子を取り上げていたことがあったけど、やはりおりおりに琴線に触れる俳人なのだ。

娼婦とも呼ばれた美貌の俳人鈴木しづ子は僕の地元の岐阜市や各務原市と縁が深く、僕ももしかしたら少年の頃、基地のあった各務原市那加で会っていたかもしれない。まだ華やかだった岐阜柳ヶ瀬の映画館にいた頃、会っていたのかもしれない。
僕にも夢のようなマレーナがいたような淡い記憶があるのだ。 
「鈴木しづ子 各務野幻想譚」はあと十六景、十七景、十八景、終景でいちおう終了予定です。
ちなみに僕も鈴木しづ子の本は探して各務原市立図書館で三冊ほど借りました。
マレーナは映画「マレーナ」より。
「あかつき」の金星の軌道再投入 宇宙は諦めない総合力
こちらも科学ニュースから。
JAXA(=宇宙航空研究開発機構)が、金星の観測を目指す惑星探査機「あかつき」の金星の軌道再投入に成功しましたね。
「あかつき」は5年前、主エンジンの故障で、軌道投入に失敗していたが、残る小型エンジンの噴射に成功し、金星から最短で400キロの周回軌道に入った。日本の探査機が地球以外の惑星を回る軌道に入ったのは今回が初めてとなる。
小惑星探査機「はやぶさ」も深刻なトラブルを経て奇跡のように地球に帰還したから、いわば二度目の奇跡。
二度あることは奇跡ではないから、日本の諦めない、そして科学の基礎から技術までの総合力の力というべきなのだろう。
金星を回る軌道への投入のためのメインエンジンが故障で使えず、姿勢制御用の小型エンジンでの軌道投入、設計寿命も越え、残燃料も少なく、予定外の軌道で太陽熱にも痛めつけられ…という諦めてもおかしくない過酷な状況だったのだ。 
小惑星探査機「はやぶさ」の記憶も鮮明なJAXAでなければ放棄されていたかもしれない。
諦めないということは費用もかかるし、理解を得るのも大変ですからね。

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それでも頑丈な機体、守られた積載カメラ、用途外のエンジン、緻密な再投入のための軌道計算など多方面の裏付けがあったればこそで、まさに「下町ロケット」。
宇宙に限らず、基礎科学・技術は長い、長い目で。
高速増殖原型炉「もんじゅ」の諦めの悪さもこれくらいの緻密で、あらゆる分野から総動員された展望を持つものならと思うけど、こちらはなあ。

画像はJAXA全面協力で制作された「ふたつのスピカ」。
宇宙を目指す若者たちの、感動の青春ドラマ!! ―それでも私は宇宙へ行きたい。

そして、やはり「あかつき」はそれでも金星を目指すのだが、「もんじゅ」はこんな態では見直すほかない。
それでも私は宇宙へ行きたいというような純粋な夢も、科学も技術も緻密な計算も、いわば総合力が見失われているのだから。「三人寄れば文殊の知恵」というのに、言葉の意味も失っている。

テーマ:星・宇宙 - ジャンル:学問・文化・芸術

時間反転波はタイムマシンを可能にするか?文系の妄想
NTTが開発した、光ファイバーの伝送距離が伸びるに伴って生じる情報のひずみを元に戻す世界初の新技術が注目を集めている。現在のデジタル処理によるひずみを補正する技術に比べ、電力消費量を10分の1以下と大幅に減らすことができ、今後10年で現在の10倍に増えると見込まれる情報量の増大や長距離伝送にも対応している“優れモノ”だ。今回の新技術は、一定の方向性を持って生じるという情報のひずみを逆方向に戻すことで、ひずみを補正させる「位相共役変換」と呼ばれる技術。位相共役変換技術は、補正を逆戻しする技術のため、時間をさかのぼるように見えることから「時間反転波」とも呼ばれており、インターネット上では「タイムマシンに使えるのでは?」という声が出るなど、技術自体の専門性と合わせて「難しい」という声があふれている。(産経新聞)

理数系が苦手のSF好きとしては理解不能ながらわくわくするなあ。
どうも文系の人間はゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理などをロマンあふれる原理をイメージすると、そのまま一足飛びにSFのようなロマンチックな想像になりがちです。
この位相共役変換技術というのもそうで、光速を越えるようなことがなくてもタイムマシンは可能になるのだろうかと。

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以前にも東京大の古澤明教授らの研究チームが、光の粒子に乗せた情報をほかの場所に転送する完全な「量子テレポーテーション」に世界で初めて成功したと発表したとあったけど、これもいわゆる「スター・トレック」などのテレポート(瞬間移動)とはちがい、量子もつれと呼ばれる物理現象を利用して、二つの光子(光の粒子)の間で、量子の状態に関する情報を瞬時に転送する技術だった。

見かけ上は似ていても、時間遡行も瞬間移動もSFで描かれるものとはちがうのだけど、意外と科学の発想の肝はこんなところにも隠れていたりするから可能たらしめるかもしれない。
現代の科学にも大きな影響を与えた錬金術も化学的手段を用いて卑金属から金を精錬しようと始まったけど、「物質」そのものを変えるのではなくて、「物質」に新たな可能性を見出すものと考えることもできますからね。
まあ、気を付けないとエセ科学のような落とし穴でもあるのだけど。
「ハンニバル」のレクター博士なら執着しそうなアイデアです。
しかし、SFが描いた夢は時間遡行も瞬間移動なども含めて、夢のまた夢と思われたものまで科学的に近づきつつはある。
科学の届かぬ夢は永久機関と予知ということらしい。
シベールの大切なマイナンバー
もう各家庭にも届いているはずのマイナンバーだけど、一生その番号は変わることなく、他人に知られることは極力避けるべきなどと言われるから、やはりずいぶん不安になるとともに、もしかしたら少しロマンチックなイメージを抱く人もいるかもしれない。
たかが番号とはいえ、管理するための番号とはいえ、わたしだけの「ヒ・ミ・ツ」の番号というのだからね。
誕生日の数字などにも何かしらの意味付けをしてしまったり、あるいは「プリズナー No.6」のように明確な囚人番号ですら、次第に自己同一します!?
マイナンバーも名前も記号に過ぎないともいえるけど、名前は人によっては何よりも変えがたいものだったりします。
たとえば映画「シベールの日曜日」。
戦争で記憶を失った青年と家族に見捨てられた少女との魂の触れ合いとも言うべき美しい物語だけど、周囲の誤解で痛ましい最期となります。
青年ですが記憶をなくし精神退行しているので心は少年のままなのだけど、世間は変質者と見なしてしまう。
泣かせるのは少女から青年へのプレゼント。

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少女は教会の屋根にある風見鶏を取って来てくれたら大切なものをあげるというのだ。
何も持たない孤児である少女の心からの青年へのプレゼントって何だと思いますか?
それは少女の真実の名前シベールだった。
名前は単なる記号ではなく、自分そのもので大切ものなのだ。
芦田愛菜を一躍有名にした名作ドラマ「Mother」でも名前は重要だったし、「明日、ママがいない」でも大切なものだった。
「君を知るや南の国」でも「あしながおじさん」でも「わたしをみつけて」でも、名前は大切なものだった。
とりわけ、親から名前をもらえなかったり、奪われた子にとって宝物のように大切なものだった。
レーゾンデートルそのものなのかもしれない。
まあ、「千と千尋の神隠し」「クリスタル・ドラゴン」のように名前を奪われてしまうと怖ろしいことにもなりかねません。
アリアンロッドのようにマイナンバーの「ヒ・ミ・ツ」は守られるだろうか。
奪われたら、もうたぶん、千尋のようには取り戻せないのだから。

テーマ:洋画 - ジャンル:映画

鶴丸城御桜門復元と宝暦治水
岐阜県と鹿児島県は姉妹県なのだけど、その鹿児島県が2020年の復元を目指す鶴丸城御桜門の扉部分の材料として、大垣市の西脇健児さんが所有する樹齢300年余のケヤキを買い取り、無償で鹿児島県に提供する。
少し前にも鹿児島県の関係者が岐阜の全国銘木展示会に参加し、樹齢300年前後の大木(長さ10メートル、直径1・1メートル)を競り落とし、御楼門の鏡柱に使用するとあったけど、今回は長さ10メートル以上、幹回りは4メートル。
岐阜県は江戸時代中期に巨額の借金や多数の藩士の犠牲を負いながら木曽三川の「宝暦治水」を完成させた薩摩藩(鹿児島県)に多大な恩義があり、今年はその治水工事の完了から260年目。
徳川幕府の嫌がらせともいえる薩摩藩への幕命であり、木曽三川を挟む隣は尾張徳川だから利害調整も難しかったに違いなく、それでも多くの犠牲と費用を払いながら宝暦治水を完成させたのだ。
岐阜が美しい木の国、水の国であるのはこうした薩摩藩の多くの犠牲、努力の上でもある。恩には報いないとね。
ちなみにケヤキを提供する西脇さんは治水工事を監督した水行奉行、西高木家の専属医の子孫。
しかし鶴丸城御桜門の復元ともなると、これほどのケヤキの大木が必要なのだね。
さらにはケヤキは伐採してから乾燥するまでに大きく反ったりするらしく、3年乾燥させ、製材してから運び出すらしい。
2020年、大丈夫かしらん。

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それにしても新国立競技場は隈研吾氏の杜のスタジアム案に決定し、大量の木材が必要で、さらには名古屋城の復元計画もあるし、森林大国とはいえ、良質の木材の供給は大丈夫だろうか。自給率は3割くらいらしいですからね。名城の復元、杜のスタジアムというなら国産木材を用いてこそでありましょう。
伊勢神宮の遷宮においては樹齢200年から300年の用材の安定提供を可能とする計画的植林が行われているというけど、こうしたおりおりの大イベントに向けても密かに計画的植林が行われていたりするのだろうか。
木の国である岐阜県の岐阜城もぜひ当時のままに復元してほしいけど無理ですかね。
金華山の頂上に鎮座する山城で天下布武を思うもなるほどかなと、遥か濃尾平野を見渡せます。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

鈴木しづ子各務野幻想譚 第十五景 雪の椿折りて靑年少女の戀
娼婦と呼ばれた俳人の名は鈴木しづ子。
東京に生まれ育ち、結婚、別れを経て岐阜の地で暮らした。
初期の句は若い女性らしい瑞々しい清新な句に満ち、のちに大きく変貌、直截的なまでに女、性を詠んだ。
岐阜柳ヶ瀬のダンスホール、那加の米軍キャンプと流れ、黒人兵と同棲、この地から大量の句を投稿した。

第十五景
「国語のテストで百点取り損ねた」僕は彼女に言った。
僕は中学生になっていた。
「どうでもいいじゃない」
「そんなことないよ、たまたま同じ問題例があって、解答例もあったんだ」
「あなたはわかるでしょう、国語の解答なんて意味ないのよ、答えなんてないのよ」
「だって、椿なんだ。家には椿があってたくさんの雪をかぶって花弁が丸ごとドサッと落ちるんだ。僕はそれで目が覚めるんだ。椿が春の風景なんておかしいよ」
「先生は椿を春の風景というの?どうしてかしら」
「椿を見ながら散策してるんだ、冬の厳しい寒さのなか、人はのんびり歩くだろうかだってさ。春の暖かさこその風景なのだろうって。そんなこと言い出したらどんな風景だってあるよ」
「だから解答なんてないのよ、書き手が自由なように読み手も自由なのよ。先生の答えは想像で、あなたの椿はほんものだけど、それだって偶然の巡り合せに過ぎない」
そうだ、誰も先のことはわからない。ただそれぞれに今があるだけなのだ。
「でも、春の椿よりわたしも冬ね。重い雪をかぶって椿の花が丸ごと落ちる」彼女は夢見るように言う。
「重い雪をかぶって、真っ赤な椿が白い雪の中に花弁ごと落ちる」
「うん」
「あなたはいったいどんな恋をするの?」彼女は笑った。

《雪の椿折りて靑年少女の戀》

各務原余聞 商家は巡る
実家は店だった。
堤防沿いの田舎なので、今でこそどこがという感じだけど、かつては木曽川沿いというのは水運が利用でき、明治中頃には笠松、川島、犬山まで商圏が広がり、仕入れも陶器は常滑、雑貨は名古屋、生糸は信州、ほか地方においては生果物、薪、炭、米、麦、鯨油、石油、味噌、溜などまで扱ったという。
その後、商圏は徐々に北の街道沿いに移っていき商勢は衰えていく。曽祖父の早逝も波乱を招く。
昭和初期と思われる年末年始福引付謝恩大売出しのチラシが残されているのだが、金の輸出再禁止とあり、諸物価大暴騰のおりの未曾有の大奉仕とあるから1931年のものだろうか。
ちなみに抽選券はお買い上げ2円ごとで、1等は長持、2等下駄箱、3等米櫃、4等新モス1反、5等大バケツ(50銭で補助券有)
どうなんでしょう?
終戦後は米軍キャンプもあった那加地区に商圏は完全に移り、父は那加や加納、長良の市にも出ていた。
僕が連れられて行ったのは「那加の市」で、子供心にも華やかで喧騒な記憶があり、美しい女たちがおり、その中には…
鈴木しづ子各務野幻想譚 第十四景 先生に言ひつけよつと晝櫻
娼婦と呼ばれた俳人の名は鈴木しづ子。
東京に生まれ育ち、結婚、別れを経て岐阜の地で暮らした。
初期の句は若い女性らしい瑞々しい清新な句に満ち、のちに大きく変貌、直截的なまでに女、性を詠んだ。
岐阜柳ヶ瀬のダンスホール、那加の米軍キャンプと流れ、黒人兵と同棲、この地から大量の句を投稿した。

第十四景
「今日、先生からビンタを食らったんだ」
彼女はおやつを焼いている。いい香りがした。
「いい日ね、今日のあなたはおやつも食らうのよ」
「で、なにをしたの?」彼女は手を休めることなく聞いてくる。
「夏休みの課題の工作だよ、間に合わなくて、マッチ棒の先を削って『つまようじ』って出した」
「バカね、もう少し工夫は出来ないの?」
「単純だからいいと思ったんだよ、通じなかった」
「真面目な先生なのよ、そして、あなたのことも真面目だと思ってくれている」
「まあ、そうだけど」
「少し嬉しかった?」
「うん、そうかな」
「ほんとうは真面目じゃないんだけどね。こんなところにも遊びに来るし、柿泥棒に、放火魔だし」
放火魔ではないけど、納屋の火事は彼女だけが知っている秘密だ。
「真面目でおとなしい子であっても、真面目なことばかり考えているとは限らないのよね」
誰も先のことは分からないと教えてくれたのは彼女だ。
「でも、僕の『つまようじ』を真似して提出した子がいて、一緒にビンタされて、僕のせいだっていうんだ」
「その子にとっては価値のないビンタだもの、でもあなたのせいじゃないわ」
「さあ、おやつのクッキーよ、ビンタもおやつも食らうのよ」

《先生に言ひつけよつと晝櫻》

あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。
去年は個人的にずいぶんなことがあったけれど、あれからもう半年も過ぎてしまった。
深夜ドラマ「おかしの家」ではないけど、居心地のいい場所も時間も、あるいは思い出したくもない辛く悲しい場所も時間もいつの間にか遠く離れていく。

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夢のような時間も、辛く悲しい時間も変わることなく流れ、そのなかで人は生きていく。
東日本大震災のときに「乾パンでと水で持つのは二日、カップめんで持つのは五日、一週間過ぎたらうまい食事をとらないと、精神的にも苦しくなる」」と言っていたのは精神科医 中井久夫氏。
さだまさしも堤防の決壊で大きな被害を受けた常総市の支援コンサートで、被災者の人たちはおにぎりは食べられてもなかなか美味しい物が食べられないため、寄付の100万円でみんなでステーキを食べようと泉谷しげると盛り上げたと言っていた。
栄養学的には足りていても、あるいはご本人たちも大丈夫というのかもしれないけど、生きていくにはささやかでもプラスαが必要なのだと思う。
人間が生きるというの簡単ではないのだ。
少しのおいしいご飯や明日への希望(小説や音楽、あるいは女の子…でもいい)があれば、人は人としてきっと強く生きられる。
優香も言っていたぞ、どんなにつらいことがあっても 「明日が来るんだもん」 って。
明日が来る幸せ、朝が来る幸せ、そんな年でありますように。

本年もよろしくお願いいたします。