理系・文系を重ねて見る光景は
人間とは何か 「BORDER 衝動〜検視官・比嘉ミカ〜」
名古屋市で知人女性を殺害し、仙台市で高校の同級生ら2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませて殺害しようとしたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた名古屋大の元女子学生(21)の裁判員裁判の公判が怖ろしく、また長崎県佐世保市の県立高校1年生の女子がやはり同級生の女子に殺害された事件。遺体は損壊され、そばには刃物や工具が残されていた。
あるいは 三重県伊勢市で起きた殺害を頼まれたという同級生殺人…。

こんな事件が下敷きにあるのだろう。「BORDER 警視庁捜査一課殺人犯捜査第4係」のスピンオフ「BORDER 衝動〜検視官・比嘉ミカ〜」が怖ろしい。かつては人智を越える怪奇な事件は悪霊や怪物などといった、まさに人でないものの仕業だったのだが、今やそんな怪奇な事件も人として起こり、ドラマや映画に描かれるようになった。
もはやファンタジーの世界ではないのだ。
外部に押し出していた人の狂気を現代は人の内在に見つけ出し、暴いてしまったのだろうか。
いずれも怖るべき事件で被害者の無念はいかほどか知るべくもないけれど、一方で加害者の動機・心の闇の徹底解明とか、命の教育が生かされなかったとか百家争鳴で、さまざまな過去の事件・経歴が列挙され解析が進むのだろう。
でも、たとえば今の医学が限りなく細部に入り、要因を特定してまた新薬を投与されるほど、実は精神医療を中心に患者は減るどころか増える一方で快気に至らないように、これは処方ではなく人間の根源というか本質というべき問題なような気もする。
戦争が典型で、あの非日常はおそらくいつもの人のままではいられない。
また穏やかな日常にあっても「魅入られたようなあの日、あの時」がいつやってくるとも限らない。量的・質的な差はあっても人間の可能性としてはあり得るのだ。でも、たとえそんな一瞬があってもそのほとんどは気づかぬままにやりすごすだろうし、表層に顔を出すことがあっても、なお、あのときの1本の電話、あのときの1時間の電車の遅れ、あのときのラジオからの声、あのときの虹、ささやかなことで多くの人が大なり小なり、うまくやり過ごし日常に戻るのだ。
僕だって小学生のとき岩山で遊んで転がり落ちたときは死んでもおかしくなかったし、大学でデモに誘われたとき行っていれば闘争に巻き込まれるほどに入り込んでいたかもしれないし、怪しげなカルトの勧誘に引っかかっていればどうなっていたかわからない。日常には非日常の扉がそこかしこに潜んでいる。

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ほんの些細な折々においても全く別の人生があったかもしれず、でもそれはそれぞれに間違いなく僕なのだ。
僕の学生時代に流行ったものにゲシュタルト心理学があり、全体は部分の総和以上のものである…というものがあるけど、個人が組織・国家とかに囚われたときのパワーは良し悪しはともかく総和はやはり部分を越えるのかもしれない。
だから正義・宗教の名のもとに戦争が正当化される。
人間も実は同じで単なる細胞分子の塊ではなく、それらの総和となりえて人間たりえているのであれば、因子のひとつひとつを探ってもさほど意味がないのかもしれない。
繰り返しの鳴るけど、文豪トーマス・マンはルーブル美術館を訪れ絢爛たる巨匠達の作品を眺め、かくのごとく記した。
「人間は罪を犯してきた。獣のようにふるまってきた。しかもその間に絶えずこういうものを生産し続けてきたのだ。この場合、これらのものの、根源をなす人間の神的な部分と獣的な部分を区別するのは誤りではないだろうか。確かにこの両者は人間の全体よりほとばしり出るのだ」。
人間とはなにかを問いかける問題なのだと思う。

それにしても波瑠って、「BORDER」 、「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」といい、あるいは「おそろし〜三島屋変調百物語」など、境界を彷徨う役柄が多いんだろう。
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過労自殺の向こうにあるもの
新国立競技場の建設作業員が過労自殺した問題で、別の元作業員が、現場で予定変更が相次ぎ作業員に負担がかかっていると証言した。この問題は新国立競技場の建設現場の23歳の男性作業員が過重労働が原因で自殺したとして、遺族が労災を申請したもの。別の作業員の男性は日本テレビの取材に、新国立競技場の設計変更の影響で工期に余裕がなく、特に負担がかかっていると証言した。(日本テレビ)

もう旧聞となるニュースだけど、今日の報道によれば新宿労働基準監督署が男性作業員の死を労災と認め、これは労災の認定としては異例の速さだという。
電通の過労死事件が大問題になったこともあるのだろう。当時の塩崎恭久厚生労働相はすぐにも現場で他にも過重労働の実態がないか調査を始めたとし、また、その後の証言ではさらに上司のずいぶんなパワハラ発言もあったという。
もちろん、これは論外なわけだけど、基本的に東京オリンピックが2020年に決定していて、予算云々のまたこれも座視できない問題ではあるにしろ、初めから設計のやり直しなどスケジュールを極めて窮屈なことにしてしまった責任はどこにあるのだろうか。
オリンピックの期日は決まっており、それらの紆余曲折の最後のつけは結局現場に来るのだ。
間に合う前提であっても何が起きるかわからず、ましてや動かせない期日のあるものであればなおさら余裕をもってすべきと思うし、やむを得ない事情でそうなったのならば、ハードスケジュールからのリスクも予想され、あらかじめ配慮があってもよかったと思うけど、いつも事故・事件が起こってから。
これこそ、まさに「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」。

さて、関ケ原での古戦場サミットに「反戦運動家は何をしておる!」 と思わぬ異議を唱えた呉智英。
岐阜県と同県関ケ原町とが関ケ原古戦場を世界三大古戦場の一つとし、あとワーテルローとゲティスバーグの二都市を招いて古戦場サミットを開き、「歴史の授業で有名なわりに観光にいかせていない」と「歯がゆさがあった」とし、「世界3大の名乗りは気宇壮大」と朝日新聞「天声人語」が声援を送ったというのだ。
私はこの「天声人語」が掲載されるや、朝日新聞と岐阜県・関ケ原町に全国から抗議の声が殺到するのではないか、と思っていたが、今に至るまでその気配はない。 全国の反戦運動家の諸君は、何をやっておるのか。明々白々の戦争礼讃、しかも背後には観光資本の貪欲な営利追求主義もある…と例の皮肉な批判が続きます。
ワーテルローはナポレオンの野望を打ち砕く抵抗戦争と言えば言えなくもないし、ゲティスバーグは黒人解放戦争の始まりと言えば言えなくもない。 すべての戦争は悪である、正義の戦争などない、という絶対平和思想がある。
私はこの思想にそれなりの意義は認めるものの、賛成することはできない。抵抗戦争、解放戦争は、やはり支持したい。
しかし、関ケ原の戦いは抵抗戦争でも解放戦争でもない。諸侯の領土拡張戦争ではないか。

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うむむ、例によってひねくれてはいるものの見事な論理展開。
こんな凄惨な戦争を無批判に賞讃し、あまつさえ観光資源にして金儲けをしようという計画を許していいのだろうか。
1945年3月26日から6月23日まで、沖縄では壮絶な戦闘が続いた。同年8月6日、広島に原爆が投下され、同月9日、長崎にも原爆が投下された。 これを「歴史の授業で有名なわりに観光にいかせていない」と「歯がゆく」思う人がいるだろうか。
沖縄の戦跡で「沖縄戦祭り」が開かれ、子供たちに軍装させて行進させるだろうか。
広島・長崎で模擬原爆投下のパフォーマンスが行なわれ、観光客が歓声を挙げるだろうか。
いや、ほんの七十年前の戦争と四百年も前の戦争とでは、わけがちがう、という声もあるだろう。
それなら、戦争から何年経ったら、そういうお祭り騒ぎだの観光資源化だのも許されるのだろうか。

戦争体験の風化が進み、沖縄戦や原爆の惨劇さえ忘却されようとしている。風化忘却を嘆く声は強く、私もそれに共感する。
しかし、風化忘却の勢いは抗しがたい。関ケ原観光資源化がその証明である。
「天声人語」はこう結ばれている。「歴史の面白さを知る糸口として格好のテーマだろう」。私は「歴史の面白さ」ではなく「歴史の悲情さ」だと思う。

先の過労自殺といい、目先や、センセーショナルものばかりに目を奪われていると、もう一方の真実を見失っているのかもしれない。この二つを関連付けようとはちょっと強引だったか。
ほとんど呉智英さんの引用で終わってしまった。
画像は「関ヶ原合戦図屏風立版古」。

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「文通」ふたたび!?
短文ならLINEで、長文ならメールで即座に要件や自分の気持ちを伝えられる現代。一方、文通が若い女性の間でブームだという。
「青少年ペンフレンドクラブ(略称:PFC)」を運営する、日本郵便によると、’16年始めに6973人だった会員数は、’17年8月1日時点では、9112人にまで増加しているそうだ。
「今でも平均毎月約200名の申し込みを受け付けています」(日本郵便)
学校で顧問教師の指導のもと、教育活動の一環、またクラブ・部活動、同好会などの形で入会する生徒も多いため、年齢構成比は10代までが28%と最も高く、男女比の方は83%で女性だ。ちなみに入会すると、会員情報誌「レターパーク」が毎月、手元に届く。「ペンパル紹介」ページに掲載された人と文通をしたい場合(国内文通のケース)は、「ペンパル紹介申込書」に加え、掲載者に送る「自己紹介の手紙」をPFC事務局に郵送、そこから相手に転送してもらう。Facebook上で瞬時に友達になれることを考えれば、どこまでもアナログな手段といえよう。
「SNS等リアルタイムに回答しなければならないコミュニケーションに疲れた方々が、肉筆の手紙に癒しを求めて、文通に回帰しているのかもしれません」(週刊SPA!編集部)

昔の雑誌には必ず文通欄があって、住所や名前はもちろん、年齢も載っていた。
今のような便利なツールはなかったけど、それらをとことん利用するというような商売っ気も悪意も何もなかった時代。
思えば家のドアもろくに鍵もかけず、窓も開け放して眠った時代。
手紙も書くまでにさまざまに悩み考え、書くときも字の下手さ加減に落ち込み、何度も書き直し、ポストに投函するときなってもなおためらい、出せば返事を待ちわび、郵便受けを覗き込む毎日。
封筒を切るにも手で破いたり、ハサミを使ったり、シャレてペーパーナイフを使ったり。
封を開ければ、その便箋に、その文字に、その言葉に心震わせる…。
まあ、そんな「ツバキ文具店」的な物語も人知れずあるというものです。

あなたは常々言っていました。字とは人生そのものであると。
私はまだこんな字しかかけません。でもこれは紛れもなく私の字です。(ツバキ文具店より)

フォントを選ぶだけの時代、人生はどうなってしまうのだろうなあ。

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作家でも昔は本に住所が載っていたのもあったな。僕のいちばん最新の記憶では「カンタン刑」(式貴士のデビュー作)に住所も電話番号も書いてあって、その後もしばらくは書いていた。
アップルから「iPhone X」も発表されてますます高機能になっていくけど、機能が付加された分、なにか人から奪われていくような気がしないでもない。

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こちらは投稿おしゃべりマガジン「ポンプ」。ペンフレンド募集でもなんでもないけど、多くの投稿者の住所がきちんと書かれていた。
場合によっては写真も載っていたからなあ。というわけで投稿ページの画像は掲載できないし、式貴士さんも今はそんなことはされていないようなので伏せました。
ネットの先駆けのような雑誌だったけど、記名でも自由で幸せな時代だったな。
効率を求めて、あらゆるものを活用する時代、その便利の代償は人にとっていちばん大切なものだったのかもしれない。
無駄や迂闊であっても緩くて豊かで自由な自分や世界のほうが心地いいかも。

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

あまりにアーキテクチャな「秋の5連休案」、もしくは衆院解散
政府は「働き方改革」や「休み方改革」を掲げていて、まあ、「プレミアムフライデー」(プレ金)もその一例だけど、さっぱり浸透しないなか、さらには公立学校の長期休みを別の月に振り替え、大型連休を導入しようする「キッズウイーク」構想もありますね。
家族で過ごす時間を増やし、地域振興にもつなげようという狙いらしい。

デジタルな時代とはいえ、あまりにアーキテクチャな発想に偏りすぎではないだろうか。
(以下、再掲・再編集)
近くの公園にあった質素ながらいい感じの木製ベンチがいつのまにか、真ん中の部分に仕切られるように板が打ち付けられてしまったけれど、あれは仕切りではなく、どうも横になって1人で占有することを防ぐためのものらしい。
たしかにわがもの顔で占有する人がおり、注意するには勇気がいるし、ならば寝転がることを不可能にしてしまえということなのだが、しかし、時には疲れて横になったり、病気、障害の人もあるから自由度が高い方がいいに決まっている。
一部マナーが欠けるからといって、それを目安と整えていくのでは日本人の公徳心も風前の灯。
手っ取り早く問題を処理できるのかもしれないけど、利用する人が多いときは遠慮するというのが当たり前のマナー、本来の教育ではある。
アーキテクチャというのはもともと建築用語で建築物の構造や設計を意味したらしいけど、今でコンピュータの構造・設計思想にと主に使われ、さらには人間の行為を制約したりある方向へ誘導したりするようなウェブサイトやウェブコミュニティの構造、あるいは実際の社会の構造もアーキテクチャという。

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社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導するのは、なにか動物園のなかに囚われているみたいと思うけど、たしかに合理的ではあるのだ。
「ここは危険だから柵をつけましょうとか、監視カメラをつけましょう」というのは安全をはかるものだから異議は唱えにくいけど、やり過ぎれば、本来の人間の危険を知る能力や道徳とか規範は失われるような気がしますね。
「キッズウイーク」構想も「働き方改革」「休み方改革」というよさげな名分のもとにあるから怪しい。
人は堕ちやすいからね。
しかし、どうも世の中は自らアーキテクチャのなかに身を置くことを望んでいるようで、すべて社会が悪いのだという言い方も、アーキテクチャ世代の考え方になるのではないかなあ。
ガンダムが描くように地球連邦と、よりアーキテクチャにならざるを得ないスペースコロニーとではやはり対立することになるだろうし、技術・アーキテクチャにあまりに寄りかかると、「エリア11(イレブン)」(コードギアス)、家畜人ヤプーのように知らず知らず管理されてしまう…と思うのは悲観に過ぎるのだろうか。
まあ、まさに犬のような幸せもあるし、それもまた否定されるものでないけど。
家族と一緒に過ごすといっても、物理的な時間の問題ばかりではないと思うのだけどなあ。
と思っていたら、まさに政権維持のためのアーキテクチャな政治状況を読み取るような唐突な衆院解散となりますね。
解散の大義としてなかなかよさそうな名分が並ぶけど、「少子高齢化という最大の課題を克服するための大改革に挑戦する」ってなんだ。ずっと前からわかっていることじゃないか。
東南海地震など分からないことにずいぶん費用と時間を注ぎ込んだかと思えば、明確に分かっていた少子高齢化の問題、到来してしまってから大改革に挑戦するって。
これこそ、大地震などと違って、どのような方向性にしろ事前に十二分に対応、準備できたものなのだ。どうみても優先順位も科学的根拠も対応すべき課題はまず少子高齢化問題だった。
まあ、あまり並列に語るようなものではないけれど、どちらもタイミングよくニュースとなっていたので。
大義名分って都合よく抜き出すものなんだなあ。

画像は「アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか」
教員不足は子どもたちがわくわく!?
九州各地で教員不足が深刻になっている。年度当初の欠員が相次ぎ、福岡県では1学期半ばでも60人以上が不足していた。第2次ベビーブーム世代の就学時に採用された教員の大量退職が背景にある。切羽詰まって、「教員免許をもつ人を紹介して」と保護者に呼びかける教委もある。「担当外では満足に教えられない。これで学力をあげろと言われても無理」とある中学教員。別の小学教員は「教員はだれでもできる仕事じゃない。こんな状況では子どもたちにも失礼だ」と話す。(朝日新聞デジタル)

まあ、それはそうだけど。教員不足は戦時中や終戦直後などにもあって、ほら、よく聞くでしょう、代用教員って。
以前にも書いた作家 土屋隆夫氏は知る人ぞ知るマニアックなミステリー作家で、博学、教員もやっていた。
特に演劇関係の知識がすごくて、様々な劇作家の名前が出てくるのだけど、僕なんかは岸田國士しかわからず、その岸田國士も名前を知るだけで読んだこともない。
歌舞伎も好きで近松もずいぶん読んだとありますね。
なんでも役には立つもので、土屋隆夫が中学の教師だった頃も先生の数が足らず、英語、国語はまあなんとか、全くの門外の音楽、歴史なども教えたという。音楽は浪曲・詩吟、歴史は講談という具合に。
「大阪城落城」は得意中の得意で、そりゃあ、「果たして千姫の運命はいかに」と盛り上げて、いいところで時間となりましたなどとやられては楽しかったに違いない。
恒常的に不足というならともかく、一時的というなら、代用教員でもこんな楽しい授業があるかもしれない。
むしろ、こんなときしか、こんな先生に巡り合わないのだろう。
そして、実はこんなところから新しい才能も生まれてくる、たぶん。

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しかし。
「担当外では満足に教えられない。これで学力をあげろと言われても無理」とある中学教員。別の小学教員は「教員はだれでもできる仕事じゃない。こんな状況では子どもたちにも失礼だ」
まあ、そうなんだけどさあ。じゃあ、担当ならじゅうぶんに教えられるのか、むしろじゅうぶんじゃない先生のほうが教育にはなるのかもしれない。
というのも以前、芥川賞を受賞した中村文則の受賞直後のインタビューや特集記事で、高校の国語の先生はこう話したのだ。
先生いわく「彼の読解力はまずまずだった」。妙な違和感。まずまずの凡庸な学生が芥川賞作家になれるのか?
ふつうの授業での読解力で測りきれるものなのだろうか?ゆらぎのない先生の教育の姿勢にまずびっくりしたのだった。
たしかに教員は誰でもできる仕事じゃないと思うけど、なってしまえばだれでもできちゃうからなあ。
不十分な環境のほうがよほど子どもたちも意外にわくわくしてるかもしれないぞ。
子どもってなければ何か見つけてくるもので、じゅうぶんな環境って何ってという気もします。
僕も社会くらいは教員資格取っておけばよかったかも。
僕ならええーっと、映画とマンガとドラマと…くらいの知識では教室持たないか。
さだまさしなんか面白い授業できそうだなあ。

画像は僕の母校(小学校)の今はない旧校舎。入り口は門柱が4本建つだけで開け放れていた。

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