理系・文系を重ねて見る光景は
詭弁の罠に落ちるな
森友問題、加計問題、果ては共謀罪、憲法改正など最近多岐にわたって議論されるけど、ものによっては嘘や真が真偽不明のままに飛び交い、重要法案も変なたとえ話や詭弁があふれてしまう。
最近はディベート教育もされるらしいけど、ルールを外れて議論の形骸のみを楽しむというか、都合よく誤用している人もいるかもしれない。まあそんなことが続いていると、おかしなこともそこそのところで落ち着いてしまっているというような感じだなあ。
慣れてしまっているのだ。非日常も続けば日常になる。人は平和にも戦争にも慣れるのだ。
しかし、詭弁ってすごいですからね。日常的には明らかなものでも(たとえば「アキレスと亀」、アキレスは亀を追い抜けないというやつです)、詭弁の罠にはまるとなかなか論破できない。
ということで、以前のブログにもたびたび書いた「男はつらいよ」からです。

博「もし、仮にあんたに好きな人がいてその人の兄さんがお前は大学出じゃないから妹はやれんといったらあんたはどうする」
寅「なに俺に好きな人がいてその人に兄さんが…バカヤローいるわけがねえじゃねえか、冗談言うなって」
博「いや仮にそうだとしても、俺と同じ気持ちになるはずだと」
寅「冗談言うなよ、俺がお前と同じ気持ちになってたまるか、馬鹿にすんなこの野郎」
博「なぜだ?」
寅「なぜだ、お前頭が悪いな、俺とお前は別の人間だ、早え話が俺が芋を食えば、てめえの尻からプッと屁が出るか?どうだ」
博「…」

僕なら思わず絶句するか、ちょっと感心してしまうか、あるいはクラインの壺のようであればそういうこともあるのではないかと、相手の議論に乗ってまんまと詭弁の罠に落ちてしまうような気がします。
無学者、論に負けずというべきなのか、寅が天才なのかよくわからないほど面白いけど、まあ、言葉尻をとらえるだけ、あるいは話の論点が変わってしまっているのに、世慣れしたインテリの博でも煙に巻かれてしまう。
議論の強さは頭の良し悪しだけではないのだ。だけど押しの一手で勝ってもなあ。
かたや野党の反論も安倍首相と同様に微に入り細に入り過ぎて、かえって本質が見えてこず、ともに自ら詭弁の迷宮に入り込んでいる。

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過去の批判が自らに返ってくるというのも詭弁のひとつ相殺法ともいうべきもので、
ママ「〇○ちゃん、宿題すんだ?」
息子「ママ、洗濯すんだ?」
という、なにやら子供のようなやりとりと変わらぬような気がする。
ギャフンと言わせて終わるのではなく、公平の原則を踏まえてそれぞれの落ち度認め、解決としなければなあ。
まあ、国会は詭弁と強弁ばかりで、これで通してもあまりいい結論とはならない。
安倍一強では「泣く子と地頭には勝てぬ」と言われるように、無理が通って道理が引っ込みがちなので、一層の自重が必要でしょう。
これは野崎 昭弘先生の「詭弁論理学」を参照して書いているけど、先生によれば詭弁術に押されない、また気づかずに操ったりしないための心構えを紹介しています。

1 無理やり説得しようとするな
2 時間を惜しむな、打ち切るのを惜しむな
3 結論の吟味を惜しむな
4 わからないことを恥じるな

この本で僕が好きなのは付録の「鏡をめぐっての会話」。鏡見ると左右は逆になるのに上下はなぜ逆にならないのかってやつですね。ずっと左右や鏡に悩まされてきたからなあ。
昭和51年発行の名著です。
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共謀罪法案の妄想・現実・幻想
政府は21日、組織犯罪処罰法改正案を閣議決定した。犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の新設を目指すが、戦前・戦中の治安維持法による監視社会を招きかねないとして、表現活動に携わる人たちが反対の声を上げている。兵庫県内では77年前、同法違反容疑で文学青年らが逮捕された「神戸詩人事件」が発生。事件に詳しい詩人季村(きむら)敏夫さん(68)=神戸市垂水区=は「権力による表現の自由への介入を許す危険性がある」と警鐘を鳴らす。(神戸新聞NEXT 3/21)

まあ、まさかとも思いますが、文学青年、理系少年、妄想オタクなどは頭の中ではとんでもないことを考えたりしますからね。
仲間が集えばさらに妄想は深まり、文学青年、理系少年、妄想オタクの別種まで結集すれば、理論的、緻密な妄想にもなりえて、たしかにここに扇動者でも登場すれば危ないことにもなるかもしれない。
たった一人でも兼ね備え、自己完結させる人だっているかもしれない。
「神戸詩人事件」のことはよくわからないけど、詩を嗜むような文学青年だからなあ。
人間の根源に潜むものを文学で表現しようとする人たちと社会の実相で捉えようとする人たち…、ううむ、よくわからん。
ただ、これら人間の根源に潜むものはもちろん、取り締まる側にもあって、ささやかな妄想が恐るべき妄想に見えてしまう、あるいは職業柄、見ようとしてしまう傾向もあるだろうから、やはり人はそれを身に染みて知っておくべきなのでしょう。
ちなみに僕は子供の頃、電車の線路に耳を当てて音を聞いていたこと、傘の柄に2B弾を仕込んで発射実験を行なったこと、台風の時、風呂敷を広げて堤防を駆け降り飛んだこと、梵鐘を揺らそうと1日中念じたこと、地図帳で世界制覇を目論んだこと、天気図で超巨大台風を上陸させ日本列島を縦断させたこと、静電気発生器で金魚の蘇生を試みたこと、チャンバラ好きが高じて秘剣 位相微塵斬りを編み出したこと、砲丸投げの真似をして大石を投げ、便所の換気塔を壊したこと…などがありますが、大丈夫でしょうか。

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映画「さびしんぼう」のようなめぐり合い(チェーンの外れた自転車の少女を助ける)も繰り返し妄想したけど、そんなこと一度も起こらなかった。
ほとんどの妄想は「おーい、さびしんぼう」って呼びかけているだけかもしれない。
さて、こんな純朴なる夢は終り、エンディングの「別れの曲」流れ始めたとき、突如、公安警察が踏み込んでくる。
青春の夢と恋、その遥かなる郷愁と幻想に襲いかかる公安警察の魔の手。「さびしんぼう」は砕け散ってしまうのか。
愛と幻想とその破壊と希望を描く純愛サスペンス巨編「さびしんぼうに触れるな」いよいよ近日公開…なんて妄想がまた始まり、妄想を信じた連中がほんとうに映画化を進めたり、いよいよ現実と幻想は虚実入り乱れ迷宮に入り込む。
つボイノリオ 愛知県芸術文化選奨
今年の愛知県芸術文化選奨の発表が少し前にあったのだけど、なんとその受賞者の中につボイノリオさんがいらっしゃいましたね。
CBCの『つボイノリオの聞けば聞くほど』など、ラジオ番組での長年の功績が評価されたのだろうけれど、時は流れるのだ。
一時は放送禁止歌のキングのような存在だったのだからなあ。
今は放送禁止歌も規制(自主規制?)もゆるくなったのだろうか。

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人間、あまり真面目ばかりでは融通が利かず、社会も気詰まりになってきますからね。
こういう文化もないと多様で豊饒な文化は生まれない。長い伝統の祭でも田縣神社の豊年祭とかありますからね。
神社ではさらに身近なものに盆踊りなどもあるけれど、ここで欠かせないのが民謡やら音頭などの歌や踊りで、こういうものにもなかなか妖しいものがあったり、いわば放送禁止的な歌や世界があったりします。祭は非日常空間でもあるからね。
近田春夫が音頭には猥褻感があるといっていたけど、原初的には非日常でもあった音頭や踊りなど歌は今や日常のものですからね。
さて、音頭に欠かせない盆踊りは戦前頃まで、見知らぬ相手と性関係を持つ出会いの場であった…と記したのは「盆踊り 乱交の民俗学」(下川耿史)。

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〈盆踊り〉とは、生娘も人妻も乱舞する“乱交パーティ”だった! 日本人は、古代より性の自由を謳歌してきた。歌垣、雑魚寝、夜這い、盆踊り……。万葉の時代から近代までの民俗文化としての“乱交”の歴史。 日本最古の“乱交”の記録は、『記紀』や『風土記』の「歌垣」である。古代日本では、宮廷人から農民までの男女が、おおらかに性の自由を謳歌していた。『万葉集』にも、歌人・高橋虫麻呂の「人妻と我も交わらん、我が妻も人から誘われよ…」という歌が残る。そして、中世からは「雑魚寝」や「夜這い」、江戸時代には日本各地で「盆踊り」という形で乱交は行なわれ、明治以降も密かに続けられた。森鴎外も『ヰタ・セクスアリス』で、故郷・津和野の盆踊りでの「性的な体験」を記している。本書は、膨大な歴史文献・資料をもとに、古代より連綿と続く“民俗としての乱交”の歴史と文化をまとめた、初めての「乱交の民俗学」である…という本もあるのだ。

まあ、危険は避けなければならないけど、まったく、すべて、予定調和、監視下におかれるような現代では人間本来の活力、それは危険の察知能力も含めて失われるのではないかなあ。
全てを機械や社会に委ねてしまうのもつまらない。
それはともかく、音頭はもちろん、演歌、歌謡曲にもある種の猥褻感が隠されていたりもしますが、隠さず表現したのがつボイノリオさんなのです、ハイッ。
こちらの貢献も認めての?愛知県芸術文化選奨なら古来の伝統に沿うものなんだろうなあ。
画像は放送禁止歌のいろいろ。

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山本地方創生相「学芸員はがん」
山本地方創生相が16日、大津市で開かれた地方創生セミナーで、「文化観光を進めなければならないが、一番のがんは学芸員という人たち。一掃しないといけない」などと発言した。セミナーは滋賀県主催で、自治体や企業の関係者約330人が出席。講演後、外国人観光客による地域活性化について質問を受けた山本地方創生相は、文化財の活用が重要との考えを示しつつ、「文化財に指定されると、部屋で水や火が使えず、お花もお茶もできない。バカげたことが行われている」と指摘。「学芸員は自分たちがわかっていればいい、わからなければ(観光客は)来なくてもいいよというのが顕著」などと述べた。(読売新聞)

さすがにすぐに撤回、陳謝となったけど、現場の学芸員からは「理解がない」などの反発の声が多いのだろうなあ。
せっかく、NHK「ブラタモリ」で学芸員の認知度も、人気も高まりつつあるのに?水を差してしまった。
まったく本末転倒というべきで、永々と守り継がれた文化だからこそ、人気化、観光化するのであって、観光に目的化してしまってはそんな文化は骸。
ここは学芸員のうるさい(ほめ言葉です)ほどの解説、注意を聞きながら、その文化の本質に寄り添うものなのだよ。
先日も熊本城の修復のニュースをやっていたけど、国宝だから杭の1本を打ち込むの大変らしいけど、こんな震災からの修復でさえも決められた手順でするしかなく、またそれでこそ、誇りうる文化たりえたのだ。
浮世絵もずいぶん海外に流出しまったけど、まあ、あれも海外で発見され、ようやく日本人もあれは芸術・文化なのだと気付かされたように、またぞろ、別の失敗をしでかすような。
マンガやアニメが今、海外での評価が高いのも別に海外や芸術を目指したからではなく、むしろ日本的世界やマニアックな世界にひたすら閉じて邁進したこそだからね。

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少女マンガの大きな瞳も以前は海外では不自然で、気持ち悪いとさえ言われていたはずで、そんな声も気にすることもなくひたすら大きくつぶらな瞳を進化させたのだ。
閉じられていたからこそ、独自の発展となり、やがて海外に発見されたのだ。
はじめから海外市場や観光に向けられたものはもはや別もので、違う次元の発展はもたらすかもしれないけど、独自に形成された日本の伝統、文化は崩れてしまうのかもしれない。
「国が政策的に国外に売り出そうと宣伝したりするのは愚の骨頂です。骨董品の包み紙に使われていた浮世絵が、ある日、外国で高く評価されたように、和様化したものの何がユニークな価値を作り出すのか分かりません。いいものは自然に外に流れ出し、外の目が拾い出してくれるはずです。それが島国、日本が抱える宿命なのです」と磯崎新(建築家)も言っている。
マンガやアニメなどを世界に広がる巨大市場と大手資本や海外からの参入も目立つけど、今までのような大衆迎合的なビジネスモデルが必ずしも通じない、それらの計数化できない価値はその道のオタクにか理解不能など、誰でも参入出来るにもかかわらず、そこには「見えざる壁」があって、実は参入の壁のハードルは非常に高かったのだ。
なのに、あたりまえの分かりやすい経済的な指標にアニメやマンガなど、すなわち文化を貶めてどうするのだ。
一時的には潤っても独自の文化は崩壊し、消費されつくして終わってしまうぞ。
ここは経済的には理解不能でも学芸員やオタクに頑張ってもらわないといけません。
誰にも破られなかった見えざるATフィールドを自ら外してどうする。

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本屋大賞は恩田陸の「蜜蜂と遠雷」
少し前になるけど「そこまで言って委員会」は万引き問題もあって、万引き防止のため写真の貼り出しの有無を議論するものだった。作家の猪瀬直樹は書店、作家、ひいては文化の危機と言ってましたね。
まあ、たしかに徳間書店の出版社がツタヤの傘下に入るなどを見ると隔世の感があります。
書店の低迷には書籍の電子化、ネット通販など他にも要因はあるけど、やはり万引きの影響は大きい。
中小、零細店ではまさに死活問題。1冊盗まれれば10冊ほども売らなければ、その費用は回収できない。
やはり、よく話題となるオレオレ詐欺などの被害金額は400億円強に対し、万引きの被害金額は4000億円強のほぼ10倍なのだ。
昔のように貧しさの故などという例は、もはや幻想なのだ。
費用をかけて防犯装置を付けても万全ではないし、人を疑うような疑われるようなストレスがまた人を劣化させかねない。
これがまた人間、文化の危機なのだ。万引きが蝕むものは人そのものであり、たおやかな文化なのだ。
画像は昭和56年の関西地区の書店状況だけど、どれほど変わってしまっただろうか。

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あの京都の大手老舗書店の駸々堂も今はなく、小さくても何かしら文化の薫り高い心地よい空間はこの今も失われつつある。

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まあ、僕は名古屋ですらもなく岐阜もしくは豊橋なんだけどね。地方都市はもう様変わり。
さて、今年の本屋大賞は恩田陸の「蜜蜂と遠雷」で、なんと直木賞との初のダブル受賞。
しかも恩田さんは「夜のピクニック」でも本屋大賞を受賞していて、2回目の受賞はこれまた史上初。
分厚く、2段組というからわくわくするなあ。
それにしても本は以前はなにかしら特別なもの、という気持ちがあったけど、今やほかの商品と変わりなく並べられ、古書の価値もずいぶんと平面的になってしまった。
坂口安吾は「小説はたかが商品ではないか、そして商品に徹した魂のみが、また小説は商品ではないと言い切ることも出来るのである」と言ったけど、何の思いれもない、ただの商品になってしまうのはなあ。
ちなみに僕の通った本屋さんは各務原では大野書店、岡田書店、栄進堂、岐阜では自由書房、星野書店、大衆書房、南陽堂、豊橋では精文館、豊川堂、文泉堂あたりだったかな。
少し怪しげな古本屋さんにも通ったりした。