理系・文系を重ねて見る光景は
NHKスペシャル「人体」と「ミクロの決死圏」
NHKスペシャル「人体」シリーズが面白いですね。
司会はタモリとノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥教授で、石原さとみや博多大吉も参加する知的エンタテイメント。
臓器同士のネットワークや腎臓の驚きの機能だとか、やはりここ最近の医学は驚くべき発展を遂げているのだなあ。
僕はこういうのを見ると映画「ミクロの決死圏」を思い出してしまうのだけど、人が体内に潜りこむのはともかく、カプセル内視鏡などすでに似たようなことは実現されている。
「ミクロの決死圏」は縮小化した医療チームが体内に入り、様々な危機に陥りながらも何とか治療をなし終え、最後は涙とともに体外に排出されるスペクタクル映画?。

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まあ、昔の映画だから科学的に見えてもずいぶんアナログで、たとえば体内では医療チームはウエットスーツを着るのだが、頭の部分が露出していたりする。
まあ、アニメ「遊星仮面」(宇宙空間でも仮面以外の顔・頭部は露出し、長い髪はたなびいている)みたいなもので、あまり科学的デティールにこだわっていると面白くなくなってしまうし、それでも十分に科学的検証に基づいた真面目な映画だった。
ちなみに遊星仮面」も意外にシリアスです。
まあ、ラクエル・ウエルチについた異物を取り除くシーンが唯一のサービスシーンですね。
もっとも遠藤周作はこの映画にまったくちがうインスピレーションを得て、「初春夢の宝船」というパロディ小説を書いた。
こちらは涙ではなく、うんこと一緒に排出される物語。さすがは老境まで肛門期?だった遠藤周作。
あのころはフロイトの口唇期とか肛門期ってのが流行ったけど、今でも通用するのだろうか。
まあ、たしかに子供は、特に男の子は「クレヨンしんちゃん」じゃないけど、うんこネタが好きですね。
子どもでなくても遠藤周作ばかりでなく、筒井康隆は「最高級有機質肥料」、山田風太郎「ありんす国伝奇」などのうんこ名作があって忘れらません。稲垣足穂などもそうじゃないのかなあ。
「人体」は全8回シリーズらしいから、ぜひ見ましょう。
遠藤周作のように思いがけないインスピレーションを得るかもしれませんよ。
ちなみに僕は胃を刺激して吐き気をもよおさせ、嘔吐させるってのがいいと思ったけど(映画的にも激流に飲み込まれるような大スペクタクルになる)、パロディまでいかなかった。
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道徳を科学で説くことはできない
人をいじめると脳から毒が出るので、いじめは良くない…小中学校で、そんな「脳科学」を根拠にした道徳の授業をする先生たちがいるらしい。他にも「プラス思考をして人に親切にしたり善い行いをしたりすると、脳からβ-エンドルフィンという良いホルモンがでます。(中略)「あなたはこの世に必要な人です。長生きしなさい」という神様からの言葉なのかもしれませんとかがあって、これを書いた先生によれば、「作り話や物語で教える道徳は、自分でも上滑り感がありました。科学的根拠がある方が、子どもに対して説得力があります」と。でも、それって科学的に正しいのか? そもそも、いじめって「科学的にダメだからダメ」なのか?と議論も巻き起こっているらしい (朝日新聞より) 

回答として「根本的な話として、脳の活動と善悪は関係ありません。人体は誰でも同じ仕組みですが、何が『善い』かは文化や状況によって変わります。だから、様々な『善い』に対応する画一的な体の反応はあり得ません。単純化は危険です」「哲学の世界では知られたことですが、『○○である・でない』と『○○すべきだ・すべきでない』の間には絶対に埋まらない溝があります。つまり、科学が教えてくれる『である』をいくら積み重ねても、『すべきだ』にはなりません。その間を埋めるのは、あくまで道徳的な判断です」「そもそも、道徳の授業の目的は、児童生徒の道徳的な判断力を養うことです。その判断を児童生徒自身にさせず、『科学』という権威を使って判断結果を押しつけようとするのは、不適切です。文部科学省の唱える『考え、議論する道徳』と対極ですね」(with news)とあったけど、まあ、そうだよなあ(長い引用ですみません)。

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ぼくは科学を信じる者だけど、科学的な事実を知る、認めることだからね。
包丁、あるいは自動車・飛行機などでも武器にもなるというのは物理的な事実だけど、武器とならしめないとするのが道徳であり、その道は科学で説くことはできない。
あきらめて、それさえ科学に委ねようとすれば、あっという間に科学に圧倒される。科学的事実だからね。圧倒的に重いのだ。
だけど科学的事実であっても、それをなすべきか常に逡巡し、立ち止まってしまうのが人間でもある。
でなければ、愛も性だって生物学にのみに収れんされてしまい、すべての古今すべてのロマンは幻想となり、弱肉強食・種の繁栄になってしまう。
AIがどれほど進化しても、使うのは人間だと思っていても、もう知らぬ間に科学の軍門に堕ちているのもしれないなあ。
道徳も科学に委ねているようでは…と思うんだけどなあ。
画像は雑誌「ムー」より。SF、オカルト、科学と混在してたけど、面白かった。
進化のための存在と時間
最近のスマホの急速な進化、あるいは本でもレバレッジリーディングなどという効率のいい読み方があるらしいけど、科学、文化、あるいは進化でも本来は着実なステップを踏むものではないかなあ。
近代までは例えば電話もベルの発明から電話機・電話線・電柱などが必要とされ、少しずつ改善されながら、そのインフラには膨大な費用と時間がかかり、そのうえにゆっくりと熟成するように生活、文化が育まれ、人間も成長してきた。
携帯、スマホに至るまでに日本では明治から昭和にかけて、人々との長い電話の歴史、それにまつわる物語があるのだ。
今はそういうインフラの整わない場所でもいきなり通信は可能となり、いわゆる先進国と変わらぬ状況があっという間に作られ、長く育まれた生活や文化も経済的裏づけがあれば簡単に彼の地にも取り込むことが出来るのだ。
これは文明の公平化というか、経済、あるいは教育などの格差をなくすための強力な武器ともいえるけど、長く積み上げ文明・文化を経て持ち得たものと、経ずに持ち得たものとの差は果たしてないのだろうか。
ピケティは金持ちは資産の運用で稼ぐことができ、その収益のほうが給与所得者の収益の伸びを上回っているから、給与所得者はどんなに頑張っても追い抜けないとしたけれど、ほんとうの資産というのはまさに「長く積み上げてきた時間も含めての文明・文化」ではないのか。

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効率の名のもとに実利的な部分のみを残し、いともあっさり投げ捨ててしまうのはほんとうの資産を失うことではないか。
あっさり捨ててしまうものにこそ、測れぬ価値があるのかもしれないぞ。
経済の指標は数字として残るし、お金など資産も形として残るけど、長い時間をかけた文明や生活・文化ももちろんほんとうに人間が叡智と感性をかけて作り上げた資産なのであり、伝承されなければ二度と取り戻すことはできない。
幸いにして古来より多くを残す日本の多くの遺産だけど、その名もなき姿なき遺産もアベノミクス的思考のみでは多くを失うのではないか。効率よく国際競争に勝ち抜こうとすれば日本語すら失いかねないからなあ。
シンプル化、フラット化は効率や公平化に繋がるものではあるけれど、せっかく急峻な山、深い渓谷、唸る大地と寄り添い、それゆえ豊かで美しい自然と調和してきた独自な文化をグローバルスタンダードの名のもとに捨て去るのではなく、常に新たなる可能性として守り提示し続けるものではないだろうか。
現実のなかでそのバランス、調和を図るのが大人の、政治の知恵であり、多様な自然・文化に育まれた日本の知恵。

画像は読んだこともない「存在と時間」。まあ、ハイデッガーなんて筒井康隆と笠井潔の小説で知るのみなので、こんな話になってしまうのだけど。
古代ローマ時代のコンクリート、カリオストロ公国の秘密
コンクリートは、年月が経つにつれてもろくなるのが普通だ。だが、古代ローマ時代に作られた岸壁のコンクリートは、時間が経てば経つほど強度を増していた。その驚きの理由が、米研究チームによって解明された。
古代ローマ帝国が滅亡したのは1,500年以上も前のことだ。だが、この時代に作られたコンクリートは、現在も十分強度がある。例えば、ローマにあるパンテオンは無筋コンクリートでできた世界最大のドームといわれているが、約2,000年経った今も強度を保っている。これは現代のコンクリートでは考えられないことだ(現在のコンクリートの寿命は、50年から100年程度とされる)。
なぜ、ここまで古代ローマのコンクリートが強いのか。その謎が解明されつつある。
古代ローマ時代のコンクリートは、火山灰、石灰、火山岩、海水を混ぜ合わせて作られているらしく、重要な役割を果たしているのが、最後の材料である海水で、この珍しい材料の組み合わせのおかげで、1,000年以上の時間をかけてコンクリート内で新しい鉱物が形成され、ますます強度を増しているという。

つまり、変化しているのだね。
日本地質学会が各県ごとに制定した県の石というのがあって、岐阜県の石は岐阜城を頂く金華山などのチャートで、もともとは赤道付近から移動してきたもの。赤道付近というのはもちろん海中で、チャートとは放散虫・海綿動物などの動物の殻などが海底に堆積してできたものなのだ。
岐阜市に隣接した僕の地元の各務原市でも見られ、地層は古生代から中生代のもので木曽川の露出したチャートからもジュラ紀あたりの放散虫が見つかったりするけど、億年単位の自然のスケールとはちがうけど、やっぱり海(海水)は偉大で、万物を変化させるのだなあ。
以前に大成建設が1000年劣化しないコンクリート柱を使ったビルの新築工事を開始したというニュースがあったけど、こちらは気密性を究極にまで高め、不純物を排除し、劣化のもとになる中性化を抑えるというものだったから発想は別のものですね。
変化することで強くなるもの、変わらないでそのままの強さを保つもの。
ドラキュラのように永遠の生命を求めるのか、人や花のように朽ち果ててもまた美しく生まれ変わるのか。ちょっとちがうか。
万物は流転するではないけど、やはり、自然に寄り添うようなもののほうが、柔軟で無理がないように思うなあ。
まあ、何でも変わらず残ればいいというものでもないだろうし。
古代ローマのコンクリートは自然に学ぶ形で作られ、たしかに海にさらされている防波堤などにはこういう発想が必要なのだろう。

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画像はアニメ「ルパン三世 カリオストロの城」。
カリオストロ公国最大のお宝というべき古代ローマの遺跡は湖に沈められていたことにより、誰の目にも触れることなく良好に遺跡は守られた。海水ではなかったけど。
もっともカリオストロ公国最大のお宝は「クラリス姫」という説もあるけど。
もう一つの妄想進化論
前にも「妄想進化論」というのを書いたことがあるけど、もう一つの「妄想進化論」です。
いつも通りの僕の妄想ですよ。論理の混乱・破たんがあっても妄想ですからね。

進化にもさまざまにあって、基本は生存競争に勝ち抜くために各々進化するのだけど、種が違えばもちろん、同じ種であってもその中で勝ち抜くためにそれぞれの競争をするのだけど、人間の場合、ある程度条件を揃えようとするのは社会性の生物であり、また、その平等の価値観を提示することによって、そのほうがむしろ競争、すなわち、より早くより良い進化、発展をもたらすからという経験則などによるものなのだろう。
経済活動も同様で、国も成り立ちも文化も成熟度も全く違うのに、まあ、ある程度には勘案しながらもまるで公平を声高に叫びながら、すべてのものをフラット化していきますね。
経済も競争だからそういう側面も多いけど、経済というのは文化など、より強く人間の社会生活全体を抱合するものでもあるから、あまり、その手法に偏るのはどうなのでしょう。
たとえば、独自に発展した日本アニメは「君の名は」の大ヒットのように様々な変化もありながら隆盛だけど、現場の疲弊は変わらない。フラット化して制作現場が海外にも拡大して競争が激しくなったからだ。
変わったというなら制作現場の疲弊の受け止め方で、フラット化したことによってなぜ僕たちがこのような待遇に甘んじなければならないのだという、ごく当たり前の生存競争の住人になってしまったことだ。
傍から見ればずいぶんな、また自らもずいぶんなとも思いながら、身を投じて作り上げた世界(作品)が認められ満たされていたものが、さらに世界中から評価されたのはよかったけど、その時点から世界市場となって競争のなかに入り、安価な労働力や技術によって表層だけが奪われていく。
競争にさらされていつのまにか、彼の地の住人の深層も表層の身にフラット化されてしまったような。
箱庭のような世界では競争といっても、それぞれの美学を争うようなものだったのに、世界市場なったとたん、冷徹な市場原理が飲み込み、あっというまに渉猟していくのだ。

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動物でも保護色、擬態など、なんでこんな方向に特化していくのかなってという感じの進化もあるのだが、これが自然の恐るべき多様性というべきなのだろう。弱肉強食は必然かもしれないけど、自然は腕力だけではない。異形、異相なものも受容する。
人は公平化の価値基準だけに安心して、経済の競争に身を投じていいのだろうか。
社会での強者として生き抜けても、それは人間の種としての力を削いで、地球の生物の種の王座は奪われるかもしれない。
まあ、それも生存競争ではあるけれど。
いや、アニメや漫画の現場のことなんだけどね。
クールジャパンで国が支援するのはいいことであるけれど、何か肝心なものが失われていく気がするんだなあ。
北斎も歌麿も若冲も好きなもの描いていただけで、貧乏も金持ちも関係なかった。
それによって独自になって永劫に生き残るのだ。