理系・文系を重ねて見る光景は
「ブラタモリ」から知る小川琢治博士
タモリ×藤井四段 新春対談というのをネット記事で読んだのだが、藤井四段が欠かさず見ている唯一のテレビ番組がNHK「ブラタモリ」らしい。
一見、両極端ともいうべきタイプの違う二人だけど、とも鉄オタでもあるらしいし、まあ、両極にあるって「ひも理論」じゃなけど、どんなに両端に離れていてもちょいと曲げて端と端を繋げれば、それこそ繋がるから引き合うのかもしれない(ひも理論なのか?)。
そして、「ブラタモリ」といえば地形・地質で、タモリによれば地質学は凄いマイナーな学問で、「学会は年々縮小しているけど、確たる証拠がない学問だから面白いんです。誰も当時の現場を見たことない」というのが惹かれる理由らしい。
たしかに地質学がマイナーだといういい例が小川琢治博士。
ウィキペディアでも紹介は明治3年5月28日(1870年6月26日) - 1941年11月15日[1])は、日本の地質学者、地理学者。和歌山県田辺市出身。基本はこれだけですからね(人物紹介等は別にある)。
実は小川琢治博士のご子息はあの物理学者湯川秀樹博士なのだが、まあ、紹介は湯川博士の1割にも満たない!?
まあ、湯川博士は日本人初のノーベル賞受賞者だから当然でもあろうけれど、でも、ここでよく引用する児童年鑑の歴史人名辞典には湯川秀樹博士とともに小川琢治博士もちゃんと載っている。
地質学者、理学博士。日本群島の地質構造を研究。地図学でも大家。和歌山県出身。1949年、ノーベル賞を受けた湯川秀樹博士の実父。
児童年鑑でも地図とか地形がけっこう使われているから地質学、地図学が今より重きをなしていたのだろう。
大河ドラマ「西郷どん」でも少年の西郷は薩摩の地図を見て藩、国を強く意識するように、地図、とか地形、地質を見て世界を、歴史を俯瞰できるということもあるのだろう。火山とか地震などの自然科学的なことも同様で、きっちり見ることが大切なのだ。

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小川琢治博士は多趣味で、何かに興味を持つと、それに関する本を集める癖があった。そのため、自宅は図書館のようであったという。「勉強は自主的に行うもの」という信念を持っており、強いることは一切しなかった。教え子や子どもらにはいつも「学校の成績のために学ぶのは、実に愚かしいことだ。自分が好きな学問を、広くかつ深く学びなさい」と言い聞かせたという。(ウィキペディア)

湯川秀樹博士も「目鼻が付かないうちがいちばん面白い」と作った「混沌会」(顔の造作のない帝王「混沌」は7つの穴(目・耳・鼻・口)を彫ったところ、混沌は死んでしまった)は、「荒削りでも将来発展しそうなアイデアを大事にした」らしく、理論的不備をつく指摘には、湯川は「ここはアイデアを議論する場だ、つぶすのが目的ではない」と席を蹴って退出した。「ぼくらは難問に挑んでいるんだ。多少のほころびはあっても志の高さを評価しよう」というのだ。
「物理は一つ、自然は一つ」。これも当時の物理学が素粒子・宇宙論・物性などへの専門化が始まろうとしており、湯川は「自然は(研究領域ごとに)別々に動いているわけではない」と忌み嫌ったという(日経新聞)。

湯川博士のノーベル賞への道程はかくあったのだが、今はどうなんだろうなあ。
つい先日も京都大学iPS細胞研究所で 人工多能性幹細胞(iPS細胞)に関する論文で不正が見つかったとのニュースがあったけど、荒削り、ほころびはあっても志の高さは失ってはならない。
「ブラタモリ」なアプローチも思った以上に学問的なすそ野を広げるなど学術的な貢献も大きいのかもしれないし、好奇心を持つ子供たちも出てくるのだろう。
タモリと山中伸弥教授が司会を務めるNHKスペシャル「人体」シリーズもね。

画像は「児童年鑑」より。山の高さや南極・北極など妙に詳しくて、そして楽しい。
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場の理論における喫茶店は考えるときの『ため』の場
東海地方は喫茶店の多い土地柄で、さらに有名なのはモーニングサービスの豪華さですが、それでも個人経営の店は圧倒的に少なくなり、その存在の意味合いもずいぶん違ってきた。
僕の学生の頃はどちらかと言えば若い人たちのたまり場、学生たちの議論の場でもあったけど、今は老人やおばさんの憩いの場で、まあ、時は流れ、若い人は減り、老齢人口が増えているからこれも自然の理。
当時、たまり場としていた学生たちが老いて回帰しているとも言えますね。
あの頃、僕の周りでは「場の理論」というのが流行っていて、同じ議論をしても教室と喫茶店ではまた別の結論が見出されたりするのだったけど(?)、今の学生はネット、SNSという場になってしまったのだろうか。

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以前に日経新聞で 鷲田清一氏(哲学者)が「議論できる喫茶店を作れ」というのがあった。
最近の流行のカフェは単なる待ち合わせ、時間つぶしの場所で、人が居合わせただけで文化が生まれるわけでなく、一方、かつて路地裏にあった名曲喫茶、ジャズ喫茶には文化の香りがあり、どこか秘密ぽくって暗く、大人への入り口のようでもあった。
さらに若者たちが集まれば議論を通して『論』を立ち上げたり、横でギターを弾く奴がいたり、女目当ての奴も潜んでいたりもするのだが、そういうものも含めて大人への基礎体力が鍛えられるのだろう。
でないとデモクラシーもたしかに脆弱なものなってしまうのかもしれない。
テレビやネットから流れる情報を受身でシャワーのように浴び、条件反射のように反応するだけでは物事を考えるときの『ため』がなくなり、想像力がしぼんでいると言われればそのような気もする。
画像はかつての大阪桃谷のゼネプロにあった店内カフェ「SID」のマッチ。あのころは他に岡山に「ソラリス」という喫茶店もあったはずで、賑やかに交わされたのはSF談義。今やSF映画の巨匠の庵野監督や樋口監督もいたのだろうなあ。
映画では神戸に「レティシア」(映画「冒険者たち」)というバーがあるとも聞いたし、書店もあるらしいけど、こちらは映画談議が楽しく交わされ、真田広之や渡瀬恒彦がいたかもしれない。
喫茶店は考える『ため』の場だったのだ。
政治や思想だけでなく、芸術、マンガ・アニメや映画など、様々な人が集い、激しく楽しく議論を重ねた「場」だった。
今はそんな仲間もいなくなり、すっかり個になってしまったけど、独善的にはなっていないだろうか。
ネットもSNSも議論の場を広げてはくれるけど、圧倒的な情報のシャワーに流され、考える『ため』の時と場は失っているのだろうなあって。
まあ、僕も似たようなテーマや再編集などマンネリ気味で、もう少し考える『ため』の時と場があったほうがいいのかもしれない。
スマホやガラケーは持っていないんだけどね。
ということで、これまで週3回の月・水・金のブログ更新は次回より週2回の月・金とします。
まだ、多いのかなあ。案外、他の曜日にも気ままに書き込んだりするような気もしますが。
そのぶん、僕ももう少し町に出てみよう。
NHKスペシャル「人体」と「ミクロの決死圏」
NHKスペシャル「人体」シリーズが面白いですね。
司会はタモリとノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥教授で、石原さとみや博多大吉も参加する知的エンタテイメント。
臓器同士のネットワークや腎臓の驚きの機能だとか、やはりここ最近の医学は驚くべき発展を遂げているのだなあ。
僕はこういうのを見ると映画「ミクロの決死圏」を思い出してしまうのだけど、人が体内に潜りこむのはともかく、カプセル内視鏡などすでに似たようなことは実現されている。
「ミクロの決死圏」は縮小化した医療チームが体内に入り、様々な危機に陥りながらも何とか治療をなし終え、最後は涙とともに体外に排出されるスペクタクル映画?。

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まあ、昔の映画だから科学的に見えてもずいぶんアナログで、たとえば体内では医療チームはウエットスーツを着るのだが、頭の部分が露出していたりする。
まあ、アニメ「遊星仮面」(宇宙空間でも仮面以外の顔・頭部は露出し、長い髪はたなびいている)みたいなもので、あまり科学的デティールにこだわっていると面白くなくなってしまうし、それでも十分に科学的検証に基づいた真面目な映画だった。
ちなみに遊星仮面」も意外にシリアスです。
まあ、ラクエル・ウエルチについた異物を取り除くシーンが唯一のサービスシーンですね。
もっとも遠藤周作はこの映画にまったくちがうインスピレーションを得て、「初春夢の宝船」というパロディ小説を書いた。
こちらは涙ではなく、うんこと一緒に排出される物語。さすがは老境まで肛門期?だった遠藤周作。
あのころはフロイトの口唇期とか肛門期ってのが流行ったけど、今でも通用するのだろうか。
まあ、たしかに子供は、特に男の子は「クレヨンしんちゃん」じゃないけど、うんこネタが好きですね。
子どもでなくても遠藤周作ばかりでなく、筒井康隆は「最高級有機質肥料」、山田風太郎「ありんす国伝奇」などのうんこ名作があって忘れらません。稲垣足穂などもそうじゃないのかなあ。
「人体」は全8回シリーズらしいから、ぜひ見ましょう。
遠藤周作のように思いがけないインスピレーションを得るかもしれませんよ。
ちなみに僕は胃を刺激して吐き気をもよおさせ、嘔吐させるってのがいいと思ったけど(映画的にも激流に飲み込まれるような大スペクタクルになる)、パロディまでいかなかった。
道徳を科学で説くことはできない
人をいじめると脳から毒が出るので、いじめは良くない…小中学校で、そんな「脳科学」を根拠にした道徳の授業をする先生たちがいるらしい。他にも「プラス思考をして人に親切にしたり善い行いをしたりすると、脳からβ-エンドルフィンという良いホルモンがでます。(中略)「あなたはこの世に必要な人です。長生きしなさい」という神様からの言葉なのかもしれませんとかがあって、これを書いた先生によれば、「作り話や物語で教える道徳は、自分でも上滑り感がありました。科学的根拠がある方が、子どもに対して説得力があります」と。でも、それって科学的に正しいのか? そもそも、いじめって「科学的にダメだからダメ」なのか?と議論も巻き起こっているらしい (朝日新聞より) 

回答として「根本的な話として、脳の活動と善悪は関係ありません。人体は誰でも同じ仕組みですが、何が『善い』かは文化や状況によって変わります。だから、様々な『善い』に対応する画一的な体の反応はあり得ません。単純化は危険です」「哲学の世界では知られたことですが、『○○である・でない』と『○○すべきだ・すべきでない』の間には絶対に埋まらない溝があります。つまり、科学が教えてくれる『である』をいくら積み重ねても、『すべきだ』にはなりません。その間を埋めるのは、あくまで道徳的な判断です」「そもそも、道徳の授業の目的は、児童生徒の道徳的な判断力を養うことです。その判断を児童生徒自身にさせず、『科学』という権威を使って判断結果を押しつけようとするのは、不適切です。文部科学省の唱える『考え、議論する道徳』と対極ですね」(with news)とあったけど、まあ、そうだよなあ(長い引用ですみません)。

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ぼくは科学を信じる者だけど、科学的な事実を知る、認めることだからね。
包丁、あるいは自動車・飛行機などでも武器にもなるというのは物理的な事実だけど、武器とならしめないとするのが道徳であり、その道は科学で説くことはできない。
あきらめて、それさえ科学に委ねようとすれば、あっという間に科学に圧倒される。科学的事実だからね。圧倒的に重いのだ。
だけど科学的事実であっても、それをなすべきか常に逡巡し、立ち止まってしまうのが人間でもある。
でなければ、愛も性だって生物学にのみに収れんされてしまい、すべての古今すべてのロマンは幻想となり、弱肉強食・種の繁栄になってしまう。
AIがどれほど進化しても、使うのは人間だと思っていても、もう知らぬ間に科学の軍門に堕ちているのもしれないなあ。
道徳も科学に委ねているようでは…と思うんだけどなあ。
画像は雑誌「ムー」より。SF、オカルト、科学と混在してたけど、面白かった。
進化のための存在と時間
最近のスマホの急速な進化、あるいは本でもレバレッジリーディングなどという効率のいい読み方があるらしいけど、科学、文化、あるいは進化でも本来は着実なステップを踏むものではないかなあ。
近代までは例えば電話もベルの発明から電話機・電話線・電柱などが必要とされ、少しずつ改善されながら、そのインフラには膨大な費用と時間がかかり、そのうえにゆっくりと熟成するように生活、文化が育まれ、人間も成長してきた。
携帯、スマホに至るまでに日本では明治から昭和にかけて、人々との長い電話の歴史、それにまつわる物語があるのだ。
今はそういうインフラの整わない場所でもいきなり通信は可能となり、いわゆる先進国と変わらぬ状況があっという間に作られ、長く育まれた生活や文化も経済的裏づけがあれば簡単に彼の地にも取り込むことが出来るのだ。
これは文明の公平化というか、経済、あるいは教育などの格差をなくすための強力な武器ともいえるけど、長く積み上げ文明・文化を経て持ち得たものと、経ずに持ち得たものとの差は果たしてないのだろうか。
ピケティは金持ちは資産の運用で稼ぐことができ、その収益のほうが給与所得者の収益の伸びを上回っているから、給与所得者はどんなに頑張っても追い抜けないとしたけれど、ほんとうの資産というのはまさに「長く積み上げてきた時間も含めての文明・文化」ではないのか。

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効率の名のもとに実利的な部分のみを残し、いともあっさり投げ捨ててしまうのはほんとうの資産を失うことではないか。
あっさり捨ててしまうものにこそ、測れぬ価値があるのかもしれないぞ。
経済の指標は数字として残るし、お金など資産も形として残るけど、長い時間をかけた文明や生活・文化ももちろんほんとうに人間が叡智と感性をかけて作り上げた資産なのであり、伝承されなければ二度と取り戻すことはできない。
幸いにして古来より多くを残す日本の多くの遺産だけど、その名もなき姿なき遺産もアベノミクス的思考のみでは多くを失うのではないか。効率よく国際競争に勝ち抜こうとすれば日本語すら失いかねないからなあ。
シンプル化、フラット化は効率や公平化に繋がるものではあるけれど、せっかく急峻な山、深い渓谷、唸る大地と寄り添い、それゆえ豊かで美しい自然と調和してきた独自な文化をグローバルスタンダードの名のもとに捨て去るのではなく、常に新たなる可能性として守り提示し続けるものではないだろうか。
現実のなかでそのバランス、調和を図るのが大人の、政治の知恵であり、多様な自然・文化に育まれた日本の知恵。

画像は読んだこともない「存在と時間」。まあ、ハイデッガーなんて筒井康隆と笠井潔の小説で知るのみなので、こんな話になってしまうのだけど。