理系・文系を重ねて見る光景は
「感動するほど無理!」だけど惹かれる
誰でもそうだと思うけど、ちょっと無理なものに憧れますね。
まあ、少年時代の女の子なんかが典型で深窓の令嬢とか、余命幾ばくもない美少女とか、あるいは真逆のスケバンとか。
まあ、ちょっと無理どころか、なんだって無理だったような気がしますが。
本でも中学生の時のドストエフスキー「罪と罰」の挫折に始まって、懲りればいいものを相変わらず無理そうなものを読もうとした。ちょっとエッチらしいと聞き及えば、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラーを数冊買ったけど、やっぱりだめだった。
映画が好きだったので、洋画の原作もちょこちょこ買っていたけど、あまり、馴染めなかった。
映画の原作でどきどきしたのはテリィー・サザーンの「キャンディ」くらいだなあ。
あるいはシモーヌ・ヴェイユ。その哲学もよく知らないまま、学生の頃少しあこがれた。
マルクスだって僕たちにとってはファッションのようなものだったし、それならばヴェイユのほうが僕にはなにかずっと鮮烈な美しさを放っていたのだ。しかし、ヴェイユみたいなそこかしこに天才のいるの家庭ってどうなんだろうなあ。
ウィトゲンシュタインの一族もそうで想像がつきませんね。
ウィトゲンシュタインはたしか、山田正紀の小説で知ったのだと思うけど、やはりよくわからぬままにわくわくした。
歌舞伎や能などもそうでたまにテレビで舞台中継があるととりあえず見ようとし、辛抱して見続けたりもした。

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でもまあ、こういう入口から入れる場合もあるのだ。
スッと入れるものもあれば、入れることは入れてもその道筋はきわめて難解だったり、興味が続かなかったりもして厳しく、やはり遠のいたりする。
ハイデガーなどもそうで、これは筒井康隆と笠井潔。
小松左京や荒巻義雄のハードSF、不条理SFなどからもずいぶん刺激を受けて、原典のほうも少し覗いてみるのだが、ほぼ挫折。
でも、あまりの分からなさ加減に感動してしまい、そして欲しくなるということもあるからなあ。

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今は映画もそうだけど、すっかり気軽に見られるエンタテインメント。面倒な、難解なものは億劫になってしまった。
若かったなあ、あのころは。でも見直していると少し気力が戻るかも。
藤沢周平、宮部みゆき、有川浩、高田郁、誉田哲也…など、いや、もともとミステリーや青春小説が好きなんですけどね。

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整理中なのでたまに読み返しているけど、それにしても雑見・雑読だったなあ。
まあ、憧れた植草甚一の足元にも届かないんだけど。
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村上龍・村上春樹・金子勝・五木寛之…少数派の原則
新聞などを見ると、これからの高齢化時代、偏屈・暴走老人にならないためにも人と触れ合ったり、趣味を持つなど呼びかけたりするけど、これがなかなか難しい。
とりわけ、男の人が難しいらしく、まあ、僕などもともとがオタクで、今さら趣味以外で出るのも億劫だものなあ。
こういう生きにくい、迷いやすい時代になると人生論ような本が生まれ、金言・箴言が聞こえてくるのだけど、最近は逆説的な本も増えてきた。村上龍は「無趣味のすすめ」というのを書いていたし、五木寛之の「孤独のすすめ」などはベストセラーになっている。ライトノベルでも「僕は友だちが少ない」というのもあるからね。
もともと人見知りで、さらにひねくれ屋だった僕はつい斜に構えてしまう癖もあって、友だちも少ないのだが、かっこつけて少数派を気取り、孤高の名のもとに友だちの少なさを正当化したりした!?

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まあ、村上龍によれば「少数派という原則」というのがあって、多数派への誘惑を断固として拒絶すること、それがヴェンチャーの原則である…などと聞けば、ヴェンチャーでもないのにそうなのだよとつぶやいたり。
もうひとりの村上、ノーベル文学賞に最も近いといわれる作家 村上春樹は、イスラエルのエルサレム賞を受賞したおり、政治情勢もあって受賞を辞退すべきの声が多いなかで、あえてこの賞を受けた。
そして堂々と強大な体制を壁に、もろくて壊れやすい人間を卵にたとえ、自分は常に卵の側に立つとスピーチした。
弱者・少数派に立つこそが自らの文学の基盤ということなのだろう。
優しい文学者は政治にもひるまない気骨の人でもあるのだ。
少数派の原則でもう一人思い起こすのが、慶應義塾大学の金子勝 経済学部教授ですね。
以前はTV番組でもよく見たのだが、最近はあまり見なくなった。
宿敵 竹中平蔵と対決していたときなどは立て板に水の竹中平蔵にずいぶん分が悪かったのだが、かつてインタビューで「オレは98人がAと言ったら、絶対Bと言い張る二人のうちの一人なんですよ。旧ソ連体制だったら、オレは今頃、市場原理主義者」と言っていた人なのだ。まあ、よくわかるけど、これでは分が悪い。
でも、たとえ分が悪くても「だからどうなんだ」と声を上げる人がいないと、世界はフラット化し、多様な世界は守られないのだよ、たぶん。おおっ、また正当化しているぞ。
画像は「陽当たり良好」より伊藤さやか。ね、少数派でしょう!?というか、マニアック!?

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風に吹かれて、最後はきっとうまくいく
夏休み明けに増える子どもの自殺を防ごうと、不登校支援などに取り組む団体が居場所を開放したり、子どもや保護者からの相談を受け付けたりしている。25日には5団体が合同で緊急メッセージを発表。「つらい時、支えてくれる味方はここにいる」と呼びかける。
「学校へ行きたくないあなたへ 味方はココにいます」と題した緊急メッセージを発表したのは、全国不登校新聞社など五つのNPO法人。「つらければ学校を休んで」と呼びかけ、相談先や学校以外の居場所の情報を提供している。(朝日新聞デジタル)

もう、夏休みも終わってずいぶんと経つけど、やはりこういう事件は起きますね。
ちょうどドラマでも居場所のない子供たちに親子丼を食べさせてくれる「さくらの親子丼」というのが始まり、まあ、ちょっと話が粗雑ではあるけれど、こういう場所、こういう時間で救われるということはあるのだろう。
やっと学年が変わったり、小学校から中学校、中学から高校へとようやく辛い環境から離れ、新しい環境でと希望を持っても、また繰り返される虐めの絶望感、そうでなくてもなにかしら漠とした不安に憑りつかれる「時」があるのが青春。
なにか電話のひとつもあれば、何気ない言葉のひとつでもあれば、とにかく「その時」を越える何かしらがあれば踏みとどまるというか、とりあえず先送りされたり、そのまま忘れてしまうこともあるけれど、魅入られたようにすーっと行っちゃうときがあるのだ。
先送りでは解決にならないけど、なお、解決への道はつなげます。
大阪大学の金水敏文学部長の言うように解決しなくても「これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である」とも言えるし、そんなに難しく考えなくても「その時」なにかしらあればその問題から自由でいられるのだ。
少しだけでもいいので、とにかく立ち止まって。解決しなくても死の誘惑をやり過ごせるこもしれない。
なにか電話のひとつ、何気ない言葉のひとつ、ふっと頬をなでる風でもいいかもしれない。そして、もちろん親子丼でも。

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17歳の遺書(神田理沙)」などを見ると、こんな強い子でも死に魅入られるのだからね。
やり過ごせば、解決するかもしれないし、解決なんかしなくても風に吹かれて、最後はきっとうまくいくかもしれないのだから。

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こちらは映画化もされた「二十歳の原点」。立命館大生 高野悦子が自殺し、後に遺稿をもとに「二十歳の原点」が出版された。
彼女は「一人であること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」といって人生を閉じてしまった。
青春の悩みは永遠に変わらず、さまざまに形を変えてやってくる。
ノーベル賞 文学賞はカズオ・イシグロ
カズオ・イシグロ氏がノーベル賞 文学賞を受賞です。
小説は読んでいないのだけど、原作の「わたしを離さないで」が映画化されたり、日本では連続ドラマ化もされ、主演の綾瀬はるかとカズオ・イシグロ氏の対談も見ていた。
対談大丈夫なのか、綾瀬はるかとも心配になるけど、僕は香川照之の「具志堅=綾瀬はるか」理論を信奉するものだからね。
映画は未見だけどドラマは出来がよく、このブログでも複数回書いた。
臓器移植、クローンなど暗く重いテーマながら、その運命づけられた世界を幼少期から丁寧に描いて、諦観ともいえる心が制限された青春のなかで形成される様子が怖ろしくも切なく、それでもほの見える外の世界や、留めることができない心の揺らぎ。
登場人物の言葉づかいも皆きれいで、大切で貴重な時間を生きざるを得ない特別な世界観が強調されるようだった。
言葉を覚えるのは教育の賜物だけど、言葉を大切にするのはそれだけじゃないのだ。
「わたしを離さないで」は主人公たちは人としてさえ認められない。

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現代は過度の情報があふれ、情報に流され、おぼれ、あるいは呆然と眺めるだけなのだけど、また過度に制限されても異質な世界観が浮き上がってくる。
これが極度に政治的で組織的・国家レベルになってくると北朝鮮みたいなことにもなるけど、個人に焦点を絞れば限られた世界、時間を諦観、反抗、様々な葛藤がありながらも精一杯に生き抜く魂の物語。
象徴的に表れるのは言葉で、僕などは思わず余計なことを言ったり不要な修飾語が多かったりするけど、「わたしを離さないで」のなかで生きるものの言葉は現代社会に溢れる言葉を削り取って選び抜かれた言葉のようにシンプルで美しい。
選び取られた言葉は語られない言葉も溢れさせる。
まあ、「猿の惑星」のように言葉まで奪われることになると、そんな魂の物語も失われるのだけど。
骨太なSFドラマであり、可憐な青春恋愛ドラマであり、なおかつ若者の心の機微を描く香り高い純文学のようなドラマだったのだ。
そして、十二分にエンタテインメントでもあったと思ったのだけど、視聴率は伸びなかった。
再放送はされるのだろうけれど、いわゆる再放送枠ではなく、堂々たる時間帯でしてもらいたいものです。
また「わたしを離さないで」の空虚感にはタバコが似合っていて、印象的だった。
まあ、小説は読んでいないんだけど。妄想だなあ。

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文学部は何の役に立つのか?
今さらの話ですが、今年3月、大阪大学の金水敏文学部長が卒業セレモニーで述べた式辞がツイッターで話題になった。
「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます…」というもので、世間からの「文学部って何の役に立つの?」という声に対する考えを語ったもの。
「税金を投入する国立大学では、イノベーションにつながる理系に重点を置き、文系は私学に任せるべき」といった意見が出たことかららしいけど、私学ならなお競争も激しく、文学部(哲学・史学・文学・芸術学等)などは余計生き残りが厳しいのではないか。
まあ、いずれにしても 医学部、工学部、法学部、経済学部などのように分かりやすく役に立つものではありませんからね。
国が求めるものは常に指数的になるから、就職率や経済活動、生活の利便性、社会の維持・管理などに貢献するものとなりがちなのだ。そこで冒頭の式辞。
「しかし、文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」
「今のこのおめでたい席ではふさわしくない話題かもしれませんが、人生には様々な苦難が必ずやってきます」
「恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です」
「その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう」
「人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです」(withnewsより、一部編集)

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昔はずいぶん「役に立つ人間になれ」と言われたものだけど、まあ、どう役に立つのまでは問われなかった。
「そんなことで食っていけるのか」とは言われたけど、裏を返せば、「食っていける」のであればよかったのだ。
貧しく昼も夜も働きながら、それでも町には生活には雑多なものがまじりあい、貧乏人も高等遊民も詩を詠んだりしたのだ。
強引にいってしまえば、文系の気概に溢れていた…ような気がするなあ。
「これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう」
とは見事な回答だけど、たとえ文系を学んでいてもそんなにうまく対象化し、客観的でいられるかは難しいような気もするけど、まあ、社会って指数だけでは測れず、指数の間(人生の岐路)を優しく人知れず埋めていくことはでき、少しの猶予、時間を繋いでくれるものではあるかもしれない。どうでしょう!?
もっとも今や文系だけではなく理系も基礎科学などは難しくなってきているという。
理系だって「すぐに役に立つ」ということばかりではなく、「どう役に立つ」のか、よくわからなくても研究するのが基礎科学だからね。
そういえば今年も日本人学者が受賞したイグノーベル賞だけど、やっぱりこういう情熱もなくては。