理系・文系を重ねて見る光景は
フランケンシュタインの恋ときのこ
大の幻獣好きです。
ボルヘスの幻獣辞典を学生の頃、買ったくらいですからね。
今のようにファンタジーノベルや映画が大ヒットする時代ではなかったから、小難しそうなラテンアメリカ文学作家のものを買うしかなかった?のだが、こんな偶然からも新たな興味が広がるのだ。
実際、怖いものは大嫌いだけど、知れば見ないではいられないのが人間の本質。
誘惑されなくてもリンゴだって、きのこ(マタンゴ)だって食べてしまうのが人間。
ただ食すのではなく、誘惑だの空腹だの言い訳・葛藤をしながらも甘く自堕落な腐臭に酔ってしまうのだ。
かくて、神は人に堕ち、人は獣に堕ちる。
でも獣は神の化身ですからね。永遠のループ。

私は聞いたことがある 月夜にきのこたちが歌うのを
見た事がある 一本足でゆらゆら踊るのを
きのこの胞子は夢の砂 私に美しい幻を見せてくれる  『きのこ 森の妖精』(藤沢寿&谷川俊太郎)

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新しく始まった日テレ「フランケンシュタインの恋」。復活の秘密にきのこを持ってきましたか。
あの生命力、植物のような動物でもない不可思議さ、美しくも妖しい形容、肌触り…。
映画「マタンゴ」の水野久美には子供ながらにゾクゾクしたものなあ。
フランケンシュタインをモチーフにした大森寿美男のオリジナル脚本。やはり同枠で放送された大森寿美男の名作「悪夢ちゃん」を思い出してしまった。
この大森寿美男「TAROの塔」「64(ロクヨン)」などのリアルなものから、「悪夢ちゃん」「精霊の守り人」のようなファンタジーまで、いずれも人間の奥底を見つめるような視線がいいですね。
それにしてもフランケンシュタインときのことは天才的なひらめきというか組み合わせのような気がする。
雷の静電気でやはり覚醒するし。
僕のサボテンに静電気を当てて女の子の意識を持つサボテンを作り出すってのもそう悪くないアイデアだったかも。
サボテンの棘はアンテナでもあり、避雷針のようでもあるようだしなあ。
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テーマ:テレビドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

学校図書館にも必ずある「幸福な王子」
中日新聞の日曜版に「学校図書館」の特集があって、それによれば図書標準(学級数に応じて定められた蔵書冊数)というのがあり、国から図書整備費として約470億円(2017年度)の地方財政措置が講じられているという。
もっとも自治体へは使途を問わない地方交付税として交付され、実際の予算配分は市町村に任され、図書の整備状況には大きな格差が生まれ、達成率のトップは岐阜県の98.1%、2位山梨県95.4%、3位佐賀県91.9%、東京は20位で72.5%、愛知県は25位で68.4%、下位には大阪府45位で36.4%、奈良県46位で36.1%、最下位の47位は北海道の35.2%。
財政の豊かさとも教育熱心とも地域性とも読み取れるような読み取れないような不思議なランキングではある。
でも、まあわが岐阜県が実直に図書整備に努力しているというのは確かなのだろう。

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昨日のNHK朝ドラ「ひよっこ」で乙女寮の読書家の女の子が図書室であ行から全部読んでいたと言っていたけど、以前にもNHKで上戸彩主演「十年先も君に恋して」という出来のいいSFドラマがありヒロインは編集者だったけど、やはり学生時代のエピソードとして学校の図書室の本をアイウエオ順で全部読んだと話していた。
セレクションして好きな本を読むのもいいけど、たしかに小中学校くらいのときはなんでも読んでおいたほうがいいような気もする。
こんなエピソードが繰り返し出てくるのは意外におすすめ読書法として密かに?伝承されているのかもしれないなあ。
岐阜に有名作家の多い所以はこの読書法を実践し、県もそれに応えるべく図書整備を充実させている結果かもしれない。
ところで、この「10年先も君に恋して」では「幸福な王子」(オスカー・ワイルド)のエピソードも登場するのだが、やはりNHKにはドラマ「火の魚」(室生犀星 原作 原田芳雄 尾野真千子主演)という傑作があって、こちらもヒロインは編集者で、さらに不思議な偶然なのか「幸福な王子」のエピソードが印象的に上手く使われていた。
編集者になるほど本好きにとって「幸福な王子」って特別なのだろうか。
まあ、「相棒」でも使われていたから、ミステリー的な暗喩としても魅力的な物語なのだろうなあ。

さて、岐阜県の図書館では学校史や記念誌の一部が相次いで切り取られた器物損壊される事件があり、被害の多くは大正から平成初めまでの児童生徒の集合写真が掲載されたページに集中していたという。(現在、他県にも広がっている)
きっと幸福な王子が見ているよ、泣いているよ。
画像は岐阜市立中央図書館のぎふメディアコスモス。「知の拠点」の役割を担うらしいけど、オシャレすぎてまだ行っていない。
たとえ、みすぼらしく朽ち果てようとも蔵書の一冊一冊が人々の心に耀きをもたらす場所こそ、知の、美の拠点。

テーマ:図書館 - ジャンル:本・雑誌

桜ほうさら
定番の今こその話題です。お花見ですね。
今年は珍しく平年より遅めで、開花してからも気温が低めで、ここ岐阜でも開花から満開まで1週間以上の経過があった。
早いと開花から満開まで2、3日という、あっという間ってこともありますからね。
全国的に満開なってからも雨模様が続き花見にはあいにくだけど、春の嵐も今のところなくて満開のあとも散り果て、葉桜までゆっくり楽しめるのかもしれない。
最近は開花情報も各地、気温から詳細に情報が出ていて、また日本の桜が人気ということで海外向けに外国語でも開花情報が出されるらしいけど、外国の桜ファン向けというならデータだけでなく言葉も豊富に使ってほしいなあ。
今はたいてい、新聞などの開花情報もつぼみ、咲きはじめ、五分咲き、満開近し、満開、散り初めくらいになってしまったけど、かつてはつぼみ固しに始まり、つぼみふくらむ、ちらほら、三分咲き、5分咲き、満開近し、満開、散り初め、落花盛ん、散りはて、葉桜まであったのだ。もし満開で嵐ならば花吹雪としましょう。
外国語の表現ではどうなるのかわからないけど、このあたりの表現、語彙の豊富さも日本文化の魅力のはずだから、もっと積極的に発信したほうが日本に興味のある外国人には喜ばれるのではないだろうか。
インバウンドの目先の消費ばかりでなく、日本人さえ忘れがちな文化、折々の歳時記にこそ魅力が潜むのだよ。
あるいはもう少し楽しんで開花情報を符丁にするのもいいかもしれない。扇子の開き具合で折々の開花状況を知らせるとかね。
今年は久しぶりにゆっくりとした開花ペースで、その豊かな言葉通りの桜が楽しめる貴重な年になっているのだから。
たぶん、これからは温暖化も進んでゆっくりした季節の変わり目も楽しめなくなりそうだし…。

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画像は宮部みゆきの時代小説から『桜ほうさら』。
父の汚名をそそぐため江戸に出てきた古橋笙之介はある日、桜の精と見まごうばかりの美しい娘に心奪われるが、娘には秘密があった。また、父の汚名には藩の重大な陰謀が隠されていた。
周りの人々、美しい娘 和香の優しさ、励ましの中で困難を乗り越えていく成長の物語。
さあ、今年も新年度が始まりました。
いろいろたいへんなこともありましょうが、桜を愛でて心豊かに生きていきましょう。
先人たちは桜の楽しみに象徴されるように、華やかに咲き誇ることもはかなく散ることも、またそのあとは力強く芽吹くことも、季節ともに生きてきたのだ。

テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

本格派の鬼 実は人生派 土屋隆夫
古い本や雑誌を整理して、ふと気に留めて読み始めてしまうときりがない。
だからよほど見ないようにしているのだけど、雑誌の記事などは書籍化されていないものも多いだろうから、手放せばおそらく二度と読めなくなるので、つい、手を止めて読んでしまうなあ。
こちらはミステリー雑誌「ルパン」の土屋隆夫のファンによるインタビュー記事。
土屋隆夫氏は知る人ぞ知るマニアックなミステリー作家で、改めて読んでみるとやっぱり博学だ。
特に演劇関係の知識がすごくて、岸田國士、真山青果、真船豊、三好十郎のものは全部読んでいるという。
僕なんかは岸田國士しかわからず、その岸田國士も名前を知るだけで読んだことはない。
どうも演劇作家希望だったらしく、歌舞伎も好きで近松もずいぶん読んだとありますね。
なんでも役には立つもので、中学の教師だった頃は先生の数が足らず、英語、国語はまあなんとか、全くの門外の音楽、歴史なども教えた。音楽は浪曲・詩吟、歴史は講談という具合に。
「大阪城落城」は得意中の得意で、そりゃあ、「果たして千姫の運命はいかに」と盛り上げて、いいところで時間となりましたなどとやられては楽しかったに違いない。

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奇怪な事件を描く本格ミステリー作家は意外なほど楽しい人だった。
インタビュアーは素人のファンなので、ずいぶんなことも聞いていて、文壇付き合いはまったくないとか、そんなに寡作で食べていけるのですかとまで聞いている。そんな質問にも土屋さんはニコニコとご心配下さらなくてもと答え、偏屈で孤高の本格派との思い込みをきれいに払拭する鷹揚さです。
土屋隆夫氏は本格派と呼ばれるようにいわゆる社会派とは一線を画しているのだけど、たとえば社会派の雄、松本清張について犯罪の動機が官庁腐敗、汚職であったとしても、究極のところどんな犯罪でも女房のためであったり、わが子やわが身のためであり、その原因をたどれば個人の欲望や保身のためだと言います。
だから自分はいつでも家族のため、わが子の復讐のためとか、卑近なものを犯罪の動機としてしか考えることができないと。
そして、自分は本格派ではなく、人生派だと。
東電や東芝もこうした視点から描くことも大切かもしれない。
土屋隆夫氏の紹介になってしまった。みんなも読んでくださいね。

テーマ:文学・小説 - ジャンル:小説・文学

学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし
クイズ形式のバラエティが本当に多くなったけど、これも知識に対する欲求と遊びを効率よくやろうということなのだろか。
かつての「たけし城」などはまあ恥はかいてもかかせても、視聴者とともに悪意なく楽しめるバラエティでもあったけど(悪意がなければいいというわけではないけど)、今はそんなとこからも悪意を見つけ出し、醜悪なものにさえ変えてしまいそうだからなあ。
それはともかく。
これで得られる知識って物知りになるだけで、そこから考えることはあまり問われないですね。
たびたび、引用させていただく池内了(総合研究大学院大教授は、
「情報化社会となって、多くの知識が簡単に手に入るようになった。それによって学ぶ機会はますます増えているのだが、それの反比例して思うことが少なくなってきている、正解ばかりを出すことが評価され、ついには『テレビで言っていたから』『エライ先生が太鼓判を押したから』と人づての知識に頼るようになり、自らの頭で考える癖を失っている。民主主義とは自分がどう考え判断するかに基礎をおいているシステムだから、『思う』を失うことは民主主義の危機と言い、さらに最近の学生の傾向は知識に強い学生は、意見を求めることやその論理的表現力に弱く、逆に知識は弱いのに意見を述べさせると強い学生がいるという。

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「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」

「学ぶ」とは先人が発見し蓄積した知識を身につけていくことで、それがあればこそ文化が継承される。それに対し「思う」とは自分なりの意見や考えを付け加えていくことで、それがあってこそ、文化は豊かになっていく。「学ぶ」だけで「思う」がなければ干からびた知識の集積でしかなく、真理が明らかにならないし、「思う」だけで「学ぶ」がなければ根拠や論理性のない空論や暴論がはびこって危うい世の中になってしまう。「学ぶ」と「思う」が車の両輪となってはじめて文化は重層的に発展し安定した世の中になる…と池内先生は続けています。

マニュアル、アーキテクチャな現代社会、さらに未来はよりそうなってしまうのだろうか。
オタクこそが伝統主義にもとづく担い手になれずはずだったのだけど、最近はどうも怪しくなってきたし、かくいう僕もブログを書くにあたってウィキペディアを利用してしまうし、引用ばかりになっちゃうものなあ…と自戒をこめて。