理系・文系を重ねて見る光景は
女の子は誰でもプリンセスなのよ 幸せは測れない
[バチカン市 14日 ロイター] - 国連は14日、最新の「世界幸福度報告書2018」を発表、幸福度ランキングの第1位はフィンランド、最下位はブルンジだった。日本は54位で、昨年の51位から後退した。
米国は昨年の14位から18位に順位を下げ、豊かになっているにもかかわらず幸福度が低下していることが分かった。
同報告書は、国連の「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)」がまとめたもので、156カ国を対象に、1人当たり国内総生産(GDP)、社会支援、健康余命、社会の自由度と寛大さ、汚職の頻度などについて分析。フィンランド人は暗く厳しい冬をものともせず、自然、安全、児童の保育、良い学校へのアクセスの良さと、ヘルスケアが無料であることなどを自国で最も良い点として挙げた。

以前にも菅元首相が「最小不幸社会」の実現というのを掲げたけどけっこう違和感があった。
国家そのものは現実だけど、また人の幸不幸は社会現象としても現れるけど、人の内実でもあって指数として捉えるのはどうなのでしょう。
それでも捉えようとすれば、いつかどこかいびつになり、知らず知らず社会を歪めていくものにもなりかねないと思うなあ。
繰り返しになるけど、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて菊池寛賞を受けた石坂洋次郎(「青い山脈」「若い人」などの流行作家で、当時よく映画化・ドラマ化もされた)は、その受賞パーティで「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語っている。
もちろん、怒っているのであり、サラサラした砂地に咲くのは造花くらいで、そんな形ばかりを見ていていいのかと。
文学という表現においても都合よく見間違うのだ。
社会全般であればもちろん、ひとりひとりのなかにも様々な思いが秘められ、指数として形容できないものも多いのだろう。

se-raanime.jpg

もちろん、計数化できる幸不幸もあるのだろうけれど、国家観・哲学の下に指標は置かれるべきでしょう。
人の内実にある「美」「善」「悪」などもほどほどには目安がいるけど、すべてを指数化したように世界幸福度というのはなあ。
他にもときどき、あるでしょう。「エヴァンゲリオン」の経済効果は1500億円とか。
あれもどうも怪しく、本質ではなく、指標ばかりに目が行ってしまってどうする。
「測れるものは必ず管理される」らしいけど、「測れない」ものまで管理されてはねえ。
「女の子は誰でもプリンセスなのよ」(ドラマ「小公女セイラ」より。
なんていうのは、誰にも測れないでしょう。
もっともこの言葉は原作にないらしいけど、やはり少女小説で人気を博した氷室冴子は「女の子がただいるだけで祝福される存在」と考えていたという、「なんて素敵にジャパネスク」。
日本には指数で測れぬ幸福であふれている。まあ、不幸もだけど。
スポンサーサイト
個体はぜん動、流体は脈動をもって 自然に学ぶ
人の消化管の「ぜん動運動」を応用してロケットなどに使われるゴム状の固体燃料を効率よく作る技術を、中央大と宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究チームが開発した。大腸を模した装置のゴム部分が伸びたり縮んだりして燃料を混ぜ合わせるもので、この方法で作った燃料でロケットのエンジンの燃焼実験に成功したという。
固体燃料は従来、原料を窯に入れてミキサーのような機械で混ぜ合わせた後に取り出し、別の容器に入れてロケットなどに装填(そうてん)される。このため、一度に混ぜ合わせる量に制限があったり、窯などに取り出し切れない燃料が残ったりした。また、金属製の羽根が摩擦で火花を起こし発火する危険性もあった。
チームでは、人がとった食べ物がぜん動運動で消化管を移動する仕組みに着目。直径約6センチの筒の周りにゴムの膜でできた人工筋肉を張り、空気を送り込んで筒を収縮させ、ぜん動運動を再現した。試験の結果、ぜん動運動によって筒の中の材料がよく混ざり、できた燃料も効率よく絞り出された。(毎日新聞)

宇宙機関のJAXAと消化器官のぜん動運動がこのようにつながるのだね。
しかし、まあ人間の身体って血液や食べ物などを実に効率よく運ぶのだなあ。
以前にも長い管のなかに水や空気の流体を効率的に流すのには、常識とされた一定の速度を保つのではなく、心臓から血液が送り出されるようにドクン、ドクンと脈動させた方が効率がよく、最大で58%の流体の輸送にかかるエネルギーを節約できるのだという記事(東京農工大 岩本薫特任准教授)があったけど、固形物はぜん動運動なのか。
人間の身体はつくづくよくできている。
稲垣足穂は人間の本質を口から肛門という空洞に見立てた(その周りに骨、肉、血管が取り巻いて皮で覆われたのが人間、つまり人間の中心は空洞なのだ)という「A感覚とV感覚」という怪作を書いているけど、なるほど、血管も消化器官もかくもよくできているとなれば、こういう発想もあるかもしれない。

img60142055.jpg

あらゆる工場群には数々の配管がなされ流体物が効率よく運ばれ、ふつう配管を流れる水は管の中心のほうが流れが速く、内壁に近いほど遅くなる。ゆっくりとした流れであれば問題はないけど、速くなればなるほど中心と周辺の流れの速さの違いが大きくなり、渦ができ、流れが乱れてしまう。
この乱流を防ぐために内壁に突起物をつけたり、化学物質を混ぜたり工夫されてきたけど、この脈動を適切に与えれば、どんな流れも乱流を起きにくくし、摩擦もぐんと減るという。まだ流体理論では説明できないらしいけど。
まったく、自然の創造物は限りなくよく出来ている。
原発も冷却機能が重要な役割を占めていたりするから、冷却水の配管などが至るところに結ばれていた。
でも人間の血管のように有機的にうまく機能しなかったのは福島原発のとおり。
謙虚に自然に学ばなければいけないのだろう。地球はゆっくりと、あるいは劇的に生きているのだ。
おしゃれな「摘み草」、ヒッピーな野草
最近はヨモギやタンポポなど野山に自生する草花を採集して食す「摘み草」料理を楽しむ人たちが増えているらしい。
僕の子供のころはもともと田舎だったりしたので、たしかにヨモギやワラビ、ツクシなど摘んでいたのを思い出します。
今も摘むのはツクシくらいのものだけど、意外に野草も食べられたりするのだね。
たとえば、このユキノシタは実家の暗く湿った石垣にたくさんあって、てんぷらにすると美味しいらしいのだが、あの頃は誰もそんな知識がなく食べたことはない。
アザミは山のほうの親戚に行ったとき、やはりてんぷらで出てきて美味しかった記憶がある。
昔は地元の人しか食さなかった野草などが、広く紹介されて「摘み草」もカジュアルに楽しむようになっているのだ。
まあ、岡本信人ほどにはなれませんが。

051.jpg

まあ、子どもは料理は出来ないけど、たいていの葉っぱや果実(蛇イチゴなど)はかじったりしますね。
生で美味しいものはまずないから、ペッと思わず吐き捨ててしまうのだけど。
大学の頃には、ヒッピー系(インディアンの食生活みたいな)のアングラ本などを見つけて買ったりもした。
反体制からエコへ移り変わる時代だったのかもしれない。

DSC_0476.jpg DSC_0477.jpg DSC_0478.jpg

画像は学生のころに買った「地球の上に生きる」(アリシア・ベイ=ローレル)

今のようなカジュアルでおしゃれなものとちがうけど、いやあ、道草が大好きなもので。
摘み草ではないけど、自然薯もよく探しましたね。
蔓に特色があるのだけど、なかなか見つからない。
キノコは映画「マタンゴ」を見て以来、自生のものは怖くて食べていない。

テーマ:散策・自然観察 - ジャンル:趣味・実用

「探偵!ナイトスクープ」の30年の道草・モラトリアム
「探偵!ナイトスクープ」が今年で30年らしいですね。
いいことも悪いことも含めて関西のテレビ局というのはある種のアナーキーさがあり、人気番組でも東京で必ずしも受け入れられないのはそういう体質が妨げるのかもしれない。
なかでも「そこまで言って委員会NP」などは関西ローカルを逆手にとってのアナーキーさでもあるけど。
「探偵!ナイトスクープ」の局長も上岡龍太郎から西田敏行に代わり、顧問もキダ・タロー、ざこばなど関西お笑い界の大御所から、最近はずいぶん若い顧問もいたりするようになった。まあ、番宣絡みであったりもするけど。

naitosuku-pu.jpg

以前、顧問に松原隆一郎(東大教授)が登場したこともあった。
本人も今まででいちばん知名度のない顧問と言っていたけど、新聞など学外での露出も比較的多い人ではある。
笑いながら「専門家に尋ねれば1分ですむこと」と喝破していたけど、もちろん探偵が尋ね歩くことで意外な発見があったり、人生の楽しさを知ったり、合理性だけでは見つからないこともじゅうぶん知る人なのだ。
まさに道草の楽しみというか。道草といっても現実には道草に逃げるしかなかったのかもしれないけど、それもまたよし。
僕も高校は工業高校、大学は文学部だったし。いったい何を考えていたんでしょうね。
学生時代にモラトリアム人間(青年期は、知識、技術の研修のために、知的、肉体的、性的な能力の面では一人前になっているにもかかわらず、なお社会人としての義務と責任の支払いを猶予、つまりモラトリアムされている状態)という言葉が流行ったけど、今なお、そんな気分の僕です。
小此木啓吾は「モラトリアム人間の時代 」(中公文庫)のなかで、青年のみならず各年代、階層の現代人の心に、いつまでもモラトリアム状態にいて社会的な自己(アイデンティティ)を確立しない心理構造が一般化している事実を指摘したけど、ほんとうだなあ。
でもマンガもアニメもアイドルも小説も映画も道草のなかで見つけたのだった。
まあ、それがなにって言われたら身も蓋もありませんが。
昭和の読書、昭和の街の本屋さん
読書の秋とも言いますが、春もねえ。
新学期、新しい教科書、図書館の匂い。窓際で読んでいたりすれば風が桜の花びらを運んでくれたり…。
なんていうのは今の映画やアニメでもありそうだけど、今やデジタルでも読めてしまうからなあ。
知らぬ間に花びらがページに挟み込まれ、またいつか読み返したりすれば、ああ、春に読んだのだなとあの頃を懐かしく思いだしたり、誰かの手に渡っていたりすれば、挟み込まれた押し花が謎を解くカギとなるようなミステリーもあるかもしれない。
まあ、昭和の僕にもどちらもないけど。
今は書店事情も昭和のころとはずいぶん変わってしまい(町の小さな本屋さんが多く、ネット書店はもちろん、大規模書店もあまりなかった)、それは読書そのもの意味も変えてしまったのかもしれない。
僕のよく通った本屋は小さかったけど、町の読書好きの人々の嗜好を知って品揃えするような感じもあった。
少女漫画誌も姉や妹がいるようなふりをして買っていたけど、もちろんバレていたのだろうなあ。
あるいは、マニアックなエロ小説が1冊だけ入荷していると、「ははあ、本屋の親父、僕が買うと見込んで仕入れたに違いないぞ」と思ったこともあり(被害妄想だね)、でもたいてい、しばらくして行くと売り切れていたりした。
もうひとり以上はいたのだね、この町には。誰だ…なんてことは今はない。
古本屋に行けば、たまに書き込みのあるものがあって、「ああ、誰だろう」ってロマンチックな思いに浸ることもあった。
学校の図書室では貸し出しカードに気になる子の名前を見つけて、どきどきしたこともあった。

haiji1.jpg katou3.jpg

画像は少年時代に古本で買ったコミックス。末尾にはこんな購入日の書き込みが。お父さんというのがいいなあ。
知的で優しいお姉さんに違いないと夢想した。

大型書店ではなんでもあり様々なものに巡り合えるから、僕のころとはちがう楽しみもあるはずだけど、どうなのでしょうね。
あの頃は本だけでなく、本を取り巻く場そのものにも意味があったのだ。
今は巨大書店となり、本を置く場は大きくなったけど、ただ、あまたの情報に溢れ、情報のみに追われ、本来の、情報の意味やその流れの中で様々に生まれるようなものに気づく間もなく、本はまさにただアマゾンを流れるような本になってしまっているではないだろうか。
合理性のみで手に入れ、合理性のみで手放すように。
僕は町の本屋の親父の独善的?な合理性を愛す。
坂口安吾は「小説はたかが商品ではないか、そして商品に徹した魂のみが、また小説は商品ではないと言い切ることも出来るのである」とも言っていますが。
子供は親に薦められて良書を選ぶだけでなく、いわゆる悪書含めて学ぶし、自分で選んだものは大切にする。
かつて本を巡る様々な関わり合いが、1冊の本にあったはずだけどずいぶん少なくなってしまったような気がする。
そんな危惧を抱く読書好きの方に。

img74135619.jpg

昭和の読書/荒川洋治
出版が元気だった昭和に刊行された本の現物を手にしながら、読むということを通して、見えてきたこと。
書き下ろしを含むエッセイ集。

テーマ:本、雑誌 - ジャンル:本・雑誌