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理系・文系を重ねて見る光景は
なつぞらの「ファンタジア」
朝ドラ「なつぞら」でなっちゃん(広瀬すず)が心奪われ、アニメーターを志すきっかけとなったのがディズニーの「ファンタジア」。
なっちゃんはもう小学校の上映会で「ポパイ」なども見ていたから、なおさらその完成度に驚かされたのだろう。
クラシックの名曲に一流のオーケストラに指揮者、そして華麗なアニメが流れるのだからね。
子供の情操教育にはもちろん、大人だってアニメやクラシックに心奪われた人は多いだろうなあ、なっちゃんのように。
手塚治虫もオマージュのような「展覧会の絵」というのを作っているし、冨田勲もそうなのだろう。
なつは高校の演劇部で「白蛇伝説」のヒロインを演じたけど、アニメでも「白蛇伝」というのがあって、宮崎駿監督もこの映画を見て感動してアニメを志したらしいからね。
ちなみに先日のブログでも紹介した羽島映画資料館にはこの「白蛇伝」のポスターがあって羨ましかったなあ。
さすがに持っていない。「なつぞら」に合わせて次は「なつぞら東映まんがまつり」特集でもやらないかな。
「東映まんがまつり」なら多少は協力できるかもしれない。

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画像は映画「ファンタジア」他、古めの東映まんがまつりのポスター。「空飛ぶ幽霊船」などもあったはずだが見つからない。
なかなか資料館のようにきちんと整理というわけにはいかない。
全然、話は違うのだけど、直木賞・本屋大賞をW受賞した恩田陸の「蜜蜂と遠雷」が映画化されていて、もうすぐ若き天才音楽家たちのドラマが数々の名曲とともに奏でられるはずだけど、やはり「ファンタジア」のように心奪われる映画になるといいなあ。
主演は「ちはやふる」で広瀬すずのライバルを演じた松岡茉優。
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テーマ:昔の映画 - ジャンル:映画

狼よ、故郷を見よ
【AFP=時事】愛犬のかわいさを自慢するときに、「自己中心的」という言葉がまず頭に浮かぶ人はいないだろう。だが、犬は思いやりのある動物だとの評判は、1日に米科学誌「プロスワン(PLOS ONE)」に発表された研究論文によれば、全くの幻想かもしれない。少なくとも犬同士ではそうだという。
オーストリア・ウィーンにあるオオカミ科学センター(Wolf Science Center)では、タッチスクリーンを使った実験を重ねた結果、同じように群れの中で育った場合、犬よりもオオカミのほうが群れの仲間に献身的になることを発見した。まず研究チームは、オオカミと犬をそれぞれ訓練し、鼻先でタッチスクリーン上のアイコンを押せるようにした。「贈り物」を示すアイコンを押すと、隣接したケージに餌が届けられる仕組みだった。実験は、アイコンを押す動物と同じ動物が隣のケージ内に1匹いる場合と、いない場合で複数回行った。すると、オオカミは自分に一切見返りがなくても、同じ群れの仲間には餌を与える選択をした。ただし、隣のケージにいるのが見知らぬオオカミの場合は、関心を示さなかった。
一方の犬は、自分に見返りがない場合、隣のケージにいるのが群れの仲間か否かにかかわらず、餌を与えようとする傾向は特に見られなかった。

ちょうど、NHK「ダーウィンが来た」でも似たような特集をやっていたけど、犬と人との関係性に絞ったものだから少し結論も違ってくるのかもしれない。

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まあ、犬は忠犬ハチ公などのイメージもあって献身的という感じがしてしまうからなあ。
しかし、オオカミと比べられてしまってはやはり分が悪い。オオカミは「狼少年ケン」、「ウルフガイシリーズ」や手塚治虫の「バンパイヤ」などで孤高なるも気高く、死をもっても献身するイメージがあるからなあ。
これは動物実験だけど、人間でも極限状況などこういう状況はありうるわけで、人であったらどうなるだろうか。
人それぞれで違ったり、民族で違ったり、また群れの仲間でなくても相手で違ったり(美男・美女とか)がありそうで、結局、育った環境、社会性や道徳にあって、生物・動物としての人間は狼に劣るのかも知れない。
アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言っているから、社会性を外しては意味がなくなるかもしれないけど、また、それゆえ、鉄平兄ちゃん(やすらぎの刻~道)の言葉のように、「人は食べもしないのに人を殺す。だから、俺は戦争が嫌いだ」と。
鉄平兄ちゃん、原風景の話といい、自然とともに生きる哲学者だな。
北方四島の人々はただ原風景を見たく、戻りたいと願うのみで戦争を願うものは誰もいない。

画像は手塚治虫の「バンパイヤ」。アニメと実写が合成された意欲作。水谷豊主演作。

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

宇宙もブラックホールも飲み込む想像力
世界で初めてブラックホールの影を撮影することに成功したと、日米欧などの国際研究チームが10日、発表した。ブラックホールの存在は約100年前にアインシュタインの一般相対性理論によって予測されたが、強大な重力で光さえも外に出られないため、観測が難しかった。研究チームは高解像度の電波望遠鏡を利用してブラックホールのごく近傍のガスが発する電波を精密に観測し、影絵のようにブラックホールを浮かび上がらせた。(毎日新聞)

宇宙は世界は不思議で満ちているなあ。
NHK「チコちゃんに叱られる」でも「夜はなぜ暗いの?」というのがあって、かたせさん同様「太陽が沈むから」って思ったら「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と怒られてしまった。
答えは「宇宙に涯(は)てがあるから」。
ビッグバンから始まる宇宙の誕生からずっと宇宙は膨張してるけど、まあ、とりあえず果てはあるな。
宇宙の大きさに限りがあるのだから、星の数にも限りがあり、太陽のような恒星も限りがある。
もし宇宙が無限に広がっているなら太陽のような恒星も無限にあることになるので、夜空は昼間のように明るいということなのだ。
宇宙が無限に広がっていたら星の隙間にも遠くの星の光が見え、さらに遠くの星の隙間には、更に更に遠くの星の光が見えるはずという具合に隙間が光で埋め尽くされるはずと。何か迷宮に誘われるようですね。
僕なんかは隙間も無限にあるからほんとうに光で埋め尽くされるのだろうかという気もしてしまうけど。
もっともっと宇宙が膨張して無限に近づいたら?、夜はもう少し明るくなるのか。昼と夜はどうなってしまうのか。
まあ、こうやって思う人間の想像力もすごい。凡人ですら何億光年先であろうと宇宙の果てであろうと一瞬でその思いは到達し、また一瞬で戻ってこられるのだからね。人間の想像力は時空を越えるのだ。
天才ならいかほどに宇宙・時空は広がるのだろう。いや、ブラックホールの話だった。

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さて、今回撮影されたのはおとめ座銀河団の楕円銀河M87の中心に位置するもので、おおっ、ウルトラマンの故郷ではないかと思ったらあれはM78星雲だった。
しかし、ブラックホールに飲み込まれる危機を回避して、はるばる銀河の地球に来たのかもしれないな、ウルトラマン。
人の想像力はかくして何億光年離れていようともあっという間にウルトラマンを地球に連れてくることが可能なのです。

画僧は映画「ブラックホール」より。

テーマ:星・宇宙 - ジャンル:学問・文化・芸術

「地震の前兆」はタツノオトシゴではなくリュウグウノツカイ
少し以前のニュースから。
日本沿岸で最近、珍しい深海魚リュウグウノツカイが相次いで見つかった。この魚は「地震の前兆」という言い伝えもあり、インターネット上で心配の声も上がっているが、科学的な関連性は確認されていない。(CNN) 

「地震の前兆」というか、不吉な前兆をイメージするものは、僕にとってはタツノオトシゴだったけど、まあ、あれは「海のトリトン」ですからね。何しろ、この「海のトリトン」のタツノオトシゴ(名はマーカス)、ポセイドン直属の非情なる伝令。
実際、ポセイドンはギリシア神話で海と地震を司る神だから、タツノオトシゴ=「地震の前兆」となってしまったわけだけど、実はリュウグウノツカイであったか。

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手塚先生も調べたに違いないけど、深海魚らしい不気味な姿ではあるけれどリュウグウノツカイでは誰も知らないし、ここはやはり馴染みがあって、姿も不気味なタツノオトシゴにして、浅瀬に住むハンデはテレポートすることにしようとしたのだろう!?
「地震の前兆」というのは神話にもつながる言い伝えなのだろうけれど、深海魚というのが地の、海の奥底からの伝令という気もして、いささか科学的根拠の意味合いもあるような気にさせますね。
「海のトリトン」のトリトン族とポセイドン族の争いは失われた大陸アトランティスに起因するけど、小笠原諸島の西之島の噴火活動は大陸の創生ともいわれ(火山島は概ね玄武岩が噴出し重くてマントルに沈むのだが、西ノ島は軽い安山岩を噴出し、これは大陸の組成とほぼ変わらない)、新たな大陸の誕生の種子はふたたびトリトン族とポセイドン族のような天地を巻き込んだ、オリハルコンをも巡る争いの予兆としてリュウグウノツカイを遣わしたのかもしれない。天皇家に伝わる「三種の神器」の剣もオリハルコン説があるくらいですからね。
でも、クラゲの「トリトン、見つけた」の声は聞かないみたいなのでまだ大丈夫か。ま、誰も聞かないだろうけれど。
虚無に憑りつかれるな、痛みを知ること
最近は医者にかかることが多くなってしまった。
大病をしたせいもあって仕方がないのけど、やっぱり出来れば行きたくないのだった。
歯科、耳鼻科、眼科なども行くようになりましたね。
歯医者は子供の頃、虫歯の治療をサボって悪くしてしまった。
人間の感じる三大痛みとは必ずしも確定しているわけではないらしいけど、歯痛もよく言われるところですね。
尿管結石も痛いらしいけど、万人がわかりやすい痛みではいちばんでしょう。
治療のイメージでもまだ怖いイメージがあって、麻酔のない時代の抜歯は恐ろしいものだったらしい。
ヨーロッパでは歯抜き人(仕置き人みたいでしょう)と呼ばれる人がいて、楽隊付の歯抜き人もいた(その悲鳴はラッパの音でかき消す)。歯抜きは拷問としても利用されたというから、そりゃあ恐ろしいのだ。
まあ、きちんと歯磨きをして適宜メンテナンスに通っていればそんなことにはならないのだけど。

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さて、先日、よせばいいのに余計なことをしていて、椅子から落ちて頭部を机の角に打ち付け、けがをしてしまった。
スパッと切れたらしく、まあ、血が出ること出ること。すぐに病院に行ったのだがステープラーで6針打たれてしまった。
麻酔はなく傷みはさほどと言われたのだが、痛いよ。
僕は脊髄梗塞という少し珍しいのをやっていて、今も胸部から下は痛覚など感覚が鈍麻しているのだが、まるでその分が加わるように痛い。
でも、人間、やはり痛みは身をもって知る必要があるのだろう。
「007シリーズ」に痛みを感じない不死身のような怪人が出てきて、健康体のころはエンタテイメントして楽しむばかりだったけど、少し前のドラマ「無痛」は痛みを感じない怖ろしさが描かれて妙にリアルだった。
身体的な先天性無痛症であるばかりではなく、なんと痛みという感覚に伴う悲しみ、精神的苦痛などの人間的な感覚・概念すら持ち合わせず理解できないという設定だったのだ。
ドラマでは案の定、病巣を切り取るみたいに無味乾燥に「悪」を切り取ってしまう(すなわち、殺人)のだが、人間は善も悪も抱えての存在だからね。
「悪」という判断も、またその対応も葛藤なしではいられず、人は徳を備え、あるいは法を生み出した。
痛みは生命にとってのひとつの叫びでもあるのだろうから、叫びが身体だけでなく心にも届かないのは怖ろしく、痛みという感覚、概念がなければ生命の尊さというハードルはずいぶん低くなってしまうのかもしれない。
僕も病気を得て身体的にも知覚的にも障害があり、身体の一部は無痛、あるいは鈍麻している。
骨折しようが火傷をしようが神経が遮断されて脳が痛みを感知しないということで、いつかもファンヒーターに足をずっと向けていたら、大きな熱傷の水ぶくれが出来てしまっていた。
痛覚、温・冷覚も悪く、きっと雪原だって「007」の無痛怪人のように裸足で何時間も歩けるかもしれないけれど、凍傷になることに変わりなく、むしろ限界が分からない分、危険なのだ。
しかし身体的「痛み」そのものだけではなく、「痛み」という概念すら持ち合わせず理解できないというのなら、それに伴う悲しみや恐れなどの人格形成を歪め、徳を得ることもなく、また無垢であるがゆえに残酷だ。
痛みはほどほどにはたぶん必要なのだ。時に激しく痛んでも。痛みは生きているとの叫びだ。
人は叫び、その叫びを聞き届けなければならない。
過度の痛みもその痛みゆえに人を失わせることがあるけど、痛みを知らぬ者は人をどう生きるのだろう。
病気・けが、あるいは憎悪、苦しみも悲しみは辛いけど、その身体的・精神的苦痛は忘れてはいけないものなのだ。

画像は映画「大菩薩峠」。
妖刀・虚無に憑りつかれた男はうっとりと刀を眺め「よく斬れそうじゃ」と無造作に人を斬りつけてしまう。